2010年 06月 10日
奥の宮不動神社(1)巨大古墳だった。3mの頭椎の太刀はどうやって持つのよ。
福岡県福津市宮地嶽神社内
奥の宮不動神社(1)
地下の正倉院と呼ばれる巨大古墳
金メッキの頭椎の太刀は3m-どうやって持つのよ?
さあ、今日は奥の宮、宮地嶽不動神社に行きましょう。
途中には七福神の神社や稲荷神社などがありますが、とりあえず、まっすぐ進みます。
これが最後の石段です。登りきると拝殿があります。
この拝殿の後ろが古墳です。
この拝殿は古墳の入口にぴったりと建てられています。横穴式の古墳です。
さあ、中に入りましょう。
入口すぐの所に祭壇が置かれていて、普段はそこでお参りしますが、
今日は奥まで入りますよ。
巨大な左右の岩によって作られた羨道(せんどう)は
二人が並んで歩いていける程度の幅です。奥行きが23メートルあります。
最奥の玄室です。
左右の岩の大きさは5×5mで、ほぼ立方体だそうです。
そんな巨岩が8個左右に置かれています。
正面の棚状の床は、コンクリートで、現代の加工です。
祀られているのはお不動さんです。
この古墳は円墳です。右に回るとその頂上部がよく見えます。
さあ、今日はなんと神官さんのお話が聞けましたよ!
「この古墳は日本で1、2位の大きさを誇る古墳です。
奥行きが入口から23メートルほどあります。
奈良の石舞台に次ぐ大きさです。磐井氏の関係の墓と言われています。
この岩は近くの恋の浦海岸から運ばれた事が分かっています。
昔は、神社のすぐ下まで、海でした。そこまでは、船で運んだのでしょう。
そして、山の中腹まで運ばれたと思われます。
発見されたのは江戸時代1741年。突然の山崩れで出て来ました。
石室の中には土砂が入り込んでいて、それを取り除こうとしたら、
金がちらちら見えて、そこが古墳だと分かりました。円墳でした。
金の冠はグチャグチャになっていて、泥まみれで、
金銅性(銅に金メッキ)の巨大な太刀も崩れていました。
それでも、この太刀の持ち手は人間の子供の頭ほどある大きさでした。
長さは3メートル以上あります。
昭和9年、26年にも副葬品が見つかっています。
これが神社の社務所にあるレプリカです。
この左の丸い形が子供の頭ほどあって、頭椎(かぶつち)と言います。
刀身の方は原型をとどめていなかったそうです。
同じレプリカが福津市役所にもあると聞いています。(未確認です)
地下の正倉院と言われる副葬品
さらに説明がありました。
「馬具は九州で超一級で、所有者は皇太子のレベル以上のものです。
国宝になった主なものとして、金銅の冠(銅に金メッキ)
馬具は鞍、壺鐙(つぼあぶみ)轡(くつわ)など、
どれも銅に分厚い金メッキが施されていました。
銅の鎖。壺鐙のデザインはササン朝ペルシャのものです。
金のイヤリング、緑のガラス球、銅のお碗、銅のお皿、土師器のお碗
長方形の鉛系のガラス板など。これは正倉院と同じタイプです。」
(へえ~。ガラスが鉛タイプと聞いてドキドキ。これもペルシャとのつながりがあるんだ。
ガラスって鉛タイプとソーダタイプがあって、
それで、どこの国とつながっているか分かるという説があります。)
頭椎(かぶつち)太刀は3,2メートル。
「奈良の橿原には完全なものが出ていて、それと同等のものです。
頭椎(かぶつち)の太刀は皇位継承権のある人が持つもので、
地方豪族などは持てません。」
(そう言えば、神武天皇を現代語訳した時に、彼はこの頭椎を持っていた。
なるほど、身分を示すシンボルだったんだ。)
説明が終わったので、ついにルナは質問し始めました。
「棺は何で出来ていたのですか。」
「何も出ませんでした。だから、石棺ではなく、木棺だったと思われます。
木棺は国王クラス以上の人しか使っていません。加工が大変だからです。」
被葬者は?
「被葬者について、さっき磐井(いわい)氏の関係と言われましたが。
一般的には宗像徳善と言いますが。」
「被葬者として、よく名前が挙げられるのが宗像徳善の君です。
しかし、年代が科学的に、100年位誤差が出ます。
もし、彼が150年位生きていたら、可能性が出て来ますが。
この宮地嶽神社の御祭神の藤氏が磐井氏の孫です。
ですから、この古墳は磐井氏の関係の者と思われます。
一般には宗像徳善の君と言われていますが、違います。」
やっぱり!宗像徳善じゃないよ!やったね。
一般説は被葬者は宗像徳善となっています。
ウェブで調べても、判で押したように宗像徳善という人だと書いてあります。
その理由をいくつか考えると、
これほどの天皇家レベルの副葬品を持っている人なら、
天皇家に関係する人に違いない。
日本書紀に、娘を天皇に嫁がせたのが宗像徳善だと書いてある。
だから、この人の可能性がある。
それに付け加えて、この山から宗像にかけて津屋崎古墳群がある。
古墳群は発達しながら移動して、宮地山で頂点になった。
だから、宗像族の墓であり、その最高者の徳善の墓である。
そういう論法らしいです。
でも、ルナには、その説が何故か受け入れられませんでした。
理由は長らく自分でも分かりませんでした。
この日、神社側から宗像徳善ではないと聞いて、納得しました。
お墓を建てるなら故郷が見える丘がいいと思った。
さて、これを聞いて、宗像徳善の説を唱える人たちは、考えを変えるかな。
無理だな、きっとね。
どこか、もう一つ、自分でも腑に落ちる理由がないだろうか。
そう考えていて、皇石神社に立った時に答えが分かったのです。
皇石神社は古墳の上に立った神社でした。
その境内に立つと、古代の入江と、山々が見えます。
分かった!
そうだ、古墳は故郷を向いて造られるはずだ。大王なら、尚の事。
死んでからも、我が国を守ると。これって誰の心にもあるものじゃないかな。
そう気づいてから、この宮地嶽の巨大古墳に立つと、
宗像は山の裏側になって、故郷を見る事が出来ない位置にありました。
これが、被葬者が宗像徳善と思えない原因だったのです。
この大王も、自分の国が見えるところに造らせたはずです。
こんなシンプルな事が、大王の墓所を決めるのに一番肝心な事ではないでしょうか。
筑紫の君・磐井の墓はずいぶん遠いのですが…。
しかし、このお墓が磐井氏の一族の墓だとしたら、
筑紫の磐井の君のお墓そのものは筑後平野にあります。
はるかかなたです。
県外の方には分かりにくいと思いますが、
磐井の君の古墳は福岡県の南部・八女市にあります。
この神社は福岡県の北部にあります。大変離れているのです。
そこで、早速尋ねました。
「でも、磐井の君のお墓は筑後地方ですよね。」
「そうです。この福間までが磐井の勢力地だったのです。」
(へえっ、筑紫の君、磐井(いわい)って、福岡の半分近くを治めていたんだ。
こりゃあ、すごい大王だったんだ。)
磐井の君が天皇家と戦って、殺されたので、
子供の葛子(くすこ)が粕屋の屯倉を差し出して命を許されています。
それはすぐ隣の古賀市で起こりました。
(古賀市立歴史資料館と皇石神社に少し書いています。
詳しくは、また稿を改めます。)
そうか、ここは筑紫の大王たちの息のかかる所だったんだ。
と言う事で、神社の見解をおさらいをしておきましょ。
この古墳の被葬者を宗像徳善とするのは、100年ほどのズレがあるので無理がある。
御祭神が磐井の君の三代目にあたるので、磐井氏の関係が被葬者だったと考えるのが妥当である。
さあ、石室の中に入るには!
お祭の日この祭典の日には、古墳の石室内に入れますよ。
1月28日 初不動祭
2月28日 春季大祭
7月28日 夏季大祭
(つづく)
糟屋の屯倉 ⇒ 鹿部田渕遺跡(ししぶ・たぶち・いせき)
「粕屋の屯倉」の候補地に行って来ました
http://lunabura.exblog.jp/i127/
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が、我慢してます。(;一_一)
松ヶ枝餅は小豆あんの入った餅で、目の前で、こんがりと焼いてくれる、焼きもちです。
大宰府の梅が枝餅と、同じものです。
これって、ルーツは名島神社で紹介した、もと光少年の親戚の方が考案して、太宰府のお石茶屋に教えたそうですよ。
お勧めの焼き餅です。(*^_^*)
宮地嶽古墳の詳しい情報提供有難うございます。確かに徳善とすれば薄葬礼で大王墓も小型化していた天武期にあまりに巨大すぎる石室ですね。
石室の規模について、石舞台の全長は17m程であり、宮地嶽古墳は既に凌駕してます。全国一位は欽明天皇陵と推される「見瀬丸山古墳」の28mで、第二位は推定全長が26mと推される(現在は20m未満)山梨県の姥塚古墳、宮地嶽古墳は第三位です。
入室出来る石室としては、現状規模で日本一です。
古墳の大きさの基準は奥行きだと考えていいのでしょうか。
ところで、伽耶展の写真を見ていたら、蕨手がいくつもありました。それを見た時は、ドキッとしました。でも、宮地嶽古墳の近くから出ていた蛇行鉄製品は全く同じものが伽耶にあり、月が岡古墳(でしたっけ)の兜もそっくりさんがありました。いつか出そうとは思っていますが。
これからも、いろいろと教えてください。(*^_^*)
蕨手 とは蕨手刀の事ですか? 加耶展見なかったので申し訳ありません。
手光古墳群より出土した蛇行鉄製品は、あの有名な国宝 金象眼銘鉄剣が出土した埼玉県稲荷山古墳のすぐ横、将軍山古墳からも出土しています。用途を示す例として高句麗壁画古墳に該当する図柄を認められますが、複数の説があるようです(ネタバレ防止のため明かしません)。 同様の使用例は五郎山古墳の壁画の中にも簡略化して描かれています。
例えば石舞台は石材の大きさと仕上げでは、見瀬丸山を上回っています。
宮地嶽は石材の大きさと仕上げは天下一品ですが、単調な構造であり、横の広がりや石室構造の複雑さに欠けていると思います。
県内では豊前みやこ町にある綾塚、橘塚、うきは市にある楠名、重定古墳が宮地嶽に匹敵する(ある点では凌駕する)規模の石室を持っています。
石舞台は、確か、上を見て不安になった記憶があります。今地震があったらどうしよう、なんて。
宮地嶽古墳は、シンプルな構造なので、安定感がありますね。(どうでもいいけど。)中に入ると玄室のちょっと手前に直方体の穴が掘り込んであります。両脇です。写真を撮ったのですが、あわててしまって、フラッシュを焚きませんでした。(神官さんの許可を受けました。)こんな穴についても、専門の方の意見を聞きたいと思いました。
みやこ町やうきは市の古墳の規模が大きいのですね。どちらも、古代に重要拠点だったんですね。少しずつ私も勉強したいです。
えっと蕨手は刀かな?デザインだけに目が行きました。
蛇行鉄製品は確かに高句麗壁画の写真を見ました。それより、旗を指す穴の数も形ももそっくりなので、改めて、本の名前や写真など、紹介します。
なんだ、同じ文化なんだと、拍子抜けするほどです。
(ちなみに私も伽耶展は見ていません)
先日九州国立博物館の馬展を見に行きましたが、蛇行鉄製品は全く出ていませんでした。でも、この宮地嶽古墳から出土した、あぶみの現物がありました!シンプルなデザインで、すごく良かったです。
色々とありがとうございます。 (^-^)
朝鮮半島とは出土物の共通点は非常に多いです。蛇行鉄器は非常に珍しいものなので頻繁に展示されるものではありませんし、まだ諸説ある状態ですので、展示出来なかったのだと思います。
ところで、お気に入りでリンクさせてもらいましたのでよろしくお願いいたします。
あとで聞いたのですが、写真の太刀は大きすぎて、床の間に入らないので、短くされたと聞きました。確かに畳の長さを90センチでざっと見積もると3,2mもないので、何でだろうと思った所でした。
それと後で思い出したのが、高句麗展と伽耶展をずっと昔見たのを思い出しました。勾玉が沢山ついた金の冠を見てショックでした。「教科書には勾玉は日本だけって書いてあるのに!」って。前方後円墳だって、日本だけって書いてあった。今の教科書はどうなんてるんでしょうね。
当方も後ほどリンクさせて下さい。ただ、インターネットがやけに遅くて、表示が数分も数十分もかかるので、時間がある時にします。
この遅いの、NTTのドコモのフォーマです。写真も全部表示せず、Uチューブも見られないと言う恐るべきものでした。蕨手さんの綺麗な写真が全部見られないのでくやしいです。(すみません、グチっちゃって…)
「奈良の樫原には完全なものが出ていて、それと同等のものです。>
とありますが、これはどこで展示されているかご存知ですか?
かしはらは橿原のことですよね。橿原神宮神宝館かしら?
樫原は字の間違いで、橿原の事です。訂正して置きます。完全というのは、長さでなく、壊れていない完品という意味かもしれません。
なにしろ、宮地嶽のは、刀身は土砂でぐちゃぐちゃだったと聞いていますから。
橿原のをモデルに復元した可能性もあります。