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ひもろぎ逍遥

古物神社(2)草薙の剣が降って来た・筑紫の天智天皇


古物神社(2)
草薙の剣がこの近くに降って来たという。
天智天皇は前年まで筑紫にいて何をしていた?

古物神社(2)草薙の剣が降って来た・筑紫の天智天皇_c0222861_11233397.jpg


神社誌を続けて読んで行きましょう。

剣神社の縁起に曰く、「天智天皇の御世に、僧・道行熱田神宮の神剣を盗んで、新羅に行こうとした時、剣がにわかにその袋を突き破って空に飛び去り、筑前の古門に落ちた。

その時、光が放たれて、数里四方まで輝いて見え、土地の人が驚いて見ると、剣だった。
みんなこれは神のものだと思って、穢れのないようにと、相談して小さな祠を作ってこれをおさめた。

朝廷がこれを聞いて草薙の剣だと分かり、使いの官吏を派遣して熱田に戻した。これよりその剣が落ちた所を「降物」と言った。剣が自ら降りて来たという意味で、今「古門」と言うのはなまりである。

剣は熱田神宮に戻ったとはいえ、神霊はなお古門に留まっていて、魔を払い、災いを消すということで、万民が崇敬した。」
石上布留魂大神の座所のゆえ、布留毛能(ふるもの)村と名付けた。

さて、この剣神社には、道行が盗んだ剣が落ちて来たという縁起が伝わっていました。
さすがに神剣らしく、空を飛んで来ています。
(草薙の剣の歴史と盗難事件の詳細は八剣神社の方に書いています。)

この由緒によると落ちた所を「降るもの」と呼び、「古物」の字が当てられて、
それがなまって「ふるもん」「古門」という地名になっていったようです。

この縁起には見逃せない背景がいくつかあります。
1)天智天皇はこの前年まで筑紫にいた。
2)「ふる」とは隕石を指す古語である。
3)奈良の石上神宮の地名も布留であり、どちらも物部氏の祭祀する所である。
という事です。一つずつ見て行きましょう。

1)天智天皇はこの前年まで筑紫にいた。
天智天皇(中大江皇子)の母は斉明天皇です。
斉明天皇は新羅と闘うために筑紫に来ていました。その流れを追ってみましょう。

        661年 母君の斉明天皇が福岡県朝倉で突然崩御される。
        662年 36歳の中大江の皇子は天智天皇となり、
              筑紫の那の津長洲の宮に遷都する。
                         (現在の博多港周辺) 
        663年 白村江で大敗する。
        667年 大津へ遷都する。
        668年 草薙の剣が盗まれる。

この時代の筑紫では日本と百済の連合軍vs新羅と唐の連合軍の戦いがあり、
日本が敗北した上に、百済からの難民があふれて、大変慌ただしい時代でした。
しかも、その間に天皇の突然の死と天智天皇の即位がありました。
WIKIでは、その当時の事は謎だと書いてあるのですが、筑紫の方では話が伝わっていました。

眞鍋大覚氏によると、
天智天皇は即位後、磐井氏が作った水城(みずき)に手を加えて、
筑紫の南北を通す運河にするために、大工事をしていたそうです。
このブログに何度も登場する針摺の瀬戸(はりずりのせと)の事です。

さらに、時計磁針づくりに取り組んでいました。
磁針とは細い磁石の事で、細戈(くわしほこ)と言います。
これで羅針盤が出来る訳です。
また、背振(せぶり)の葵祭を京にもたらしたのも、天智天皇だそうです。

こうして、天智天皇は敗戦後に、新たな文明を取り入れて、強固な国造りに取り掛かっていたのが伺えます。
新羅に対する防衛の基盤を整えてから、大津に遷都しました。草薙の剣が盗まれたのはその翌年です。

新羅へ逃走するにはここを通らずにはいられない?
さて、剣を盗み出した道行の話に戻りますが、彼は新羅へ逃走するのですが、どこを通ったのでしょうか。
船路にしろ、陸路にしろ、九州に上陸して博多方面に行かねばなりません。

さて、昔の遠賀川のイラストを見て下さい。
古物神社(2)草薙の剣が降って来た・筑紫の天智天皇_c0222861_13234518.jpg

(鞍手町「古月横穴」の資料を一部改変)
これを見ると現在の平地はほとんど海没しているのが分かります。
左下に古物神社があります。その北の虫生津がありますが、
神功皇后たちはここから上陸して、この古門神社に移動します。
昔はこのルートがあった訳です。この古門は、交通の要衝です。
道行もここを通らずにはおかれなかったはずです。

ところが、この地は天皇の軍隊であり、警察でもある物部氏の本貫地です。
敗戦した後ですから、まだ警備は厳しかったでしょう。

だから、道行がここで捕まった可能性は高いなと思いました。
そして、取り返された剣の保管地に剣神社が選ばれた訳です。
それを神剣らしく、光って降って来たと色付けされて伝えられました。

蛇足です。
奈良時代をあなどるなかれ!

この当時は平城京から全国へのまっすぐの道が作られていて駅家(うまや)が16キロごとに整備され、太宰府から都まで、「4日」で情報は伝わった。
(2009年11月24日放送 NHK『謎の古代の道』より)

奈良時代に、驚きの道路網がありました!

古物神社(2)草薙の剣が降って来た・筑紫の天智天皇_c0222861_1122169.jpg

境内の左奥にある「旧剣神社拝殿跡」です。

(つづく)



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Commented at 2010-06-29 10:44 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by lunabura at 2010-06-29 16:05
そうですね。教科書では奈良や京都の都を中心に書いてあったので、
その他はただの田舎かと思っていましたが、
この鞍手や志賀島あたりの伝承を辿ると、元宮もこちらにあったりして、
文化が中国や韓半島から福岡を経由して、関西に流れて行くのがよく見えます。
鞍手は乱開発がないので、原初の伝承や地名がそのまま残っていて、
古代史の宝庫のように見えます。
だれか、地元の方が、克明に研究されると、日本の夜明けごろの姿が明らかになると思いました。
伊藤常足氏が国学者になったのも、自分の神社に余りに有名人の名が出てくるので、日本書紀の研究を始めたんでしょうね。
気持ちがよく分かります。
特に、鉄や青銅などの金属の製造の研究をすると、かなり具体的なものが見えてくると思います。
非公開さん、これからも、よろしくお願いします。

また、本を教えて下さった、マリリントリさん、モリモリキッズさん、
この場を借りてお礼を申し上げます。
ただいま、読んでいます。(*^_^*)
by lunabura | 2010-07-03 11:34 | 古物神社・ふるもの・鞍手郡 | Comments(2)

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