2010年 07月 02日
古物神社(3)「ふる」は「隕石」の古語。石上神宮の元宮か?
古物神社(3)
「ふる」は「隕石」の古語。
ここは石上神宮の元宮かもしれない

それにしても、剣が空中から落ちて来て光ったとはねえ。ちょっと無理があるなあ。
その謎を解くヒントは「ふる」にありました。
2)「ふる」とは隕石のこと。
眞鍋氏によると、
記紀にある「布留の御魂」は隕鉄を精錬した剣で、という事です。
「布津の御魂」は砂鉄を精錬した剣である。
昔から隕石が落ちた所には椋(むく)の木を植えて祀った。椋の木の実は羽根つきに使われる黒い実。2000年以上前には、その形が隕鉄の象徴だった。
1500年前頃には真金、即ち砂土を溶かして得た鉄を指した。
この辺りの地名を「古門、古月、古物」と並べると、
光が数里四方にまで見えたというのは、「ふる」すなわち隕石の落下を描写していると推測しました。
御神体が隕石だという神社は近くにもあります。
合祀する前には久保にあった剣神社も、もともと隕石が落下した場所だった可能性があります。
その隕石と、草薙の剣の事件が融合して、「剣が落ちた時、光が放たれた」という話になったんじゃないかな…。
3)奈良の石上神宮の地名も「布留」であり、
どちらも「物部氏」の祭祀する所だよ。
さて、最後の一文に注目!
石上布留魂大神の座所のゆえ、布留毛能(ふるもの)村と名付けた。これがその一文です。
布留魂大神の上に石上(いそのかみ)が付きましたよ。石上布留魂大神…ここの神の名です。
石上って、奈良にあるのと同じだ!
石上神宮を辞書で引きました。
石上神宮
祭神は布都(布留)の御霊の剣。
この剣は神武天皇の大和平定に先立ち、天照大神が天皇に授け、物部氏がこれをまつって氏神としたと伝える。かつて本殿はなく、拝殿の奥の禁足地が神聖な霊域とされていた。社蔵に七支刀がある。
物部氏が代々祭祀に当たっている。後に石上と改姓した。
御祭神の名前については「布留と布都」と両方ありました。
「ふる」と「ふつ」が材料の違いなら、その違いは一般の人には分かりません。
だんだん混乱して行って、「ふるの御魂」とも「ふつの御魂」とも、なって行ったと考えられます。
注目するのは御祭神が鞍手も奈良も「布留御魂」であり、
物部氏が祭祀し、地名が布留だと言う点です。
明らかにこの鞍手郡の古物神社と奈良の石上神宮は深くつながっています。
ルーツはこの古物神社の方と思われます。
物部氏は石上に改姓しましたが、眞鍋氏によると、
「石上(いそのかみ)とは坩堝(るつぼ)の達人」を指すそうです。
神社誌はさらに、仲哀天皇と神功皇后の事も書いていました。
「宗像記」に、古物村にある西山八幡宮は仲哀天皇、神功皇后、共に熊襲及び三韓征伐の時の行在所(あんざいしょ)である。
天皇、皇后が筑紫の岡湊から香椎宮に行かれた時、遠賀郡芦屋から船に乗って、同郡虫生津に御上陸、鞍手郡古門村にみ輿(こし)を留められた。
そこから白山嶺を越え、省木村三坂峠を過ぎて、宗像郡に移動された旧跡という事で、村民はここに祠を建てて奉斎している。
大変具体的に二人の辿ったルートが書かれています。
前回の地図に岡湊と虫生津と古物神社を書いているので見て下さい。
当時はこれが一番安全で確実なルートだったのでしょうね。
ここは筑紫と本州を結ぶ重要な邑だったのが分かります。
この神社は旅の貴人たちを泊める所でもあったのかもしれません。
その中から祭神として祀られる人も出て来ました。
後に、ここの神主になった伊藤常足が、この人里離れた宮に、
天皇たちが訪れた伝承があるのを不思議に思って、日本書紀の研究をし始めたのではないかと思いました。

拝殿前の狛犬。
(つづく)
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「宝ヶ浦」に沢山の帆船が留められたと聞きました。裏付けはとっていませんが、
神功皇后のルートについて古門で聞いた別の話と整合します。
国土地理院の25000分の1地図で確認すると、「虫生津」の記載位置に違和感が
あります。村から大字に読み替えた虫生津としては合っているのでしょうが、
地図で「宝ヶ浦」となっているところが、元の虫生津邑の中心集落で、その東
の窪地が宝ヶ浦だと思います。最寄りの交通機関は、西鉄バスの虫生津です。
「奥の下」の水路脇の道が神功皇后が輿で渡られた道だということでした。
つきあたりの丘を登ると、「たちばな」で、そこの豪族に饗応され、西へ
向かわれたとききました。「たちばな」の南面が掛津ですが、そちらへ降りず、
尾根沿いに「こうがさき」を経由されたと聞きました。
「こうがさき」は、皇ヶ埼だと思うのですが、地図にないので字が判りません。
この話も、別の友人に聞いた続きの話と整合します。
「こうがさき」から南西へ古墳脇の古道を通って西山の古野谷に至ります。
田圃の古道でも地名を聞きましたが、忘れました。
途中、のちに秀吉さんが肥前名護屋城に入る際に通ったという太閤道と交差します。
もっと詳しい方がいらっしゃれば、補っていただけると嬉しいです。
そんなに具体的に言い伝えていたんですね。
秀吉の道と違っていたと聞いて安心しました。
皇后の想定ルートと重ならなかったので私の推定が違っているのかな、なんて思ったのです。
西鉄バスの虫生図では写真を撮りました。









