2010年 07月 01日
古物神社・物部氏は中東から来た星見の氏族
古物神社(4)
物部氏は中東から来た星見(ものみ)の氏族
物部氏を勉強しなきゃ…。(でも、ちょこっとだけね)
物部氏と言う名はよく歴史の本に出てくるのですが、ルナはよく分かっていません。
そこで、この『ひもろぎ逍遥』で伺える姿だけ時代順にまとめてみることにしました。
馬見神社と日若神社で分かった事は、
馬見物部氏が天皇家の祖先を祀り続けていて、
神武天皇が古遠賀地方にやって来た時に迎えに行って、
馬を提供して家に連れて行って、馬見神社まで案内したという事です。
神武天皇は東征の準備のためにやって来たと推測しました。
八剣神社ではヤマトタケルに行宮(あんぐう)を建てて援助しています。
この古物神社では、仲哀天皇と神功皇后を留めています。
これらはすべて戦争がらみなので、天皇家は物部氏に対して、
船、馬、武器、武人などの軍備を要請したと思っています。
物部氏と天皇家には深い関わりがあり、
祭祀、軍事力、水準の高い連絡網などがあるのが見えて来ました。
物部氏の天皇家を支える信念は半端じゃありません。
しかし、辞書を見ると、そんな深いつながりは見えて来ません。
広辞苑
物部
古代の大豪族。姓(かばね)は連(むらじ)。ニギハヤヒの命の子孫と称し、天皇の親衛軍を率い、連姓諸氏の中では大伴の連氏と共に最有力となって、族長は代々大連(おおむらじ)に就任したが、6世紀半ば仏教受容に反対、大連の守屋は大臣の蘇我馬子および皇族らの連合軍とたたかって敗死。
律令時代には、一族の石上・榎井氏らが朝廷に復帰。
同じ物部氏でも、大和地方と、この本貫地ではずいぶん違う顔に見えます。
忘れてならないのは彼らが祭祀をしていたという事です。
物部氏の流れである真鍋大覚氏が、本来の姿を書いています。
物部とは星見の氏族
物部氏と鞍手族について、一部現代語に変えています。
唐戸(からと)の星(ケフェウス座 アルデラミン)
肥前では韓比(からこ)と言い、肥後では倉戸(くらど)という。また、筑前で唐門(からと)と言い、豊前では鞍手(くらて)と言う。
水門・井堰の管理をして、昼夜をおかず水神に仕え、また舟運・灌漑の利をもって、その余沢に薪炭魚藻を納める氏族である。これを記紀では国栖(くず)、あるいは葛生(くず)と書いている。
曽我稲目(そがのいなめ)は伊都郡と那珂郡の間に新開の土地を開き、筑紫の国造磐井と共に473年の洪水を修めたのであるが、神崎の物部氏と那珂の中臣氏の間に水利の紛争が昂じて、552年の仏像を巡っての対立に及んだ。
葛生(くず)の氏族を「つづらみびと」と言った。星占の達人の家系であった。一般に「つづら」とは黄道から南天の星を見定める氏族であり、「かづら」とは黄道から北天の星を見取る氏族であった。
吉野は国栖(くず)の故郷であった。国栖は倭人に星占の方策を口授した氏族であった。歴代の天皇が吉野に行幸するときには、必ず国栖の長老が伺候して、講義をした。
物部氏は元来は星辰を祭る家系で、その先祖は近東にあった。いつのころか中臣の氏族と和睦して、背振の北と南を領有していたのである。
恒星に対して遊星、彗星は振れ動き、又、揺れ偏って、その位置が定まることがない。それを「ふれ」と言い、そのわずかな方向の差別を物部・中臣の両氏は「つづら」と「かづら」にわけて、その観測記録を撮り続けた。
物部氏は星見(ものみ)の家系であった。
あちこちに散らばっている文章を集めたので、理解しにくいのですが、びっくりする事ばかりです。
「くらて」「からと」とはケフェウス座・アルデラミンの和名で、
その星を信仰する氏族たちは、水利を管理する技術があった集団で、
それぞれの地でこのアルデラミンの和名を名乗り、それが地名となったという意味です。
「物部氏」については、福岡県と佐賀県の県境にある背振山の南、
佐賀県側にいて、南天の星座を観測していたと書いています。
福岡県の那珂(なか)の中臣(なかとみ)氏と和睦したり争ったりしています。
彼らは中東がルーツで、倭人に星占を教えています。
これらから、思うに、物部氏は背振山の南から、山沿いに馬見山の方に向かい、
遠賀川が奥深い入江であった時代に、馬見神社あたりに下りて来て
入江が陸地化するにつれて、下流に広がって行ったと思われます。
(馬見の縄文遺跡は彼らの遺跡かも知れません。)
何のために?
それはスズ鉄という古代鉄を生みだす葦の宝庫だったからです。
(これについては、また別項で検証しましょう。)
物部氏とは、本来は星を観測して、暦を作ることで天皇家をサポートする氏族で、
古代鉄の製造の技術もあることから、軍事的な力も持っていたと考えました。
物部氏が石上神宮で祭祀をするのも、それが本来の姿であるからなのですね。
物部氏が「軍事や刑罰を司る」という見方だけでは正しく理解していない事が分かります。
Wikiで物部氏を引くと「鞍手」の文字がありません。
これが物部氏論が迷路にはまっている理由だと思います。
物部氏の真の姿を研究をするには、この鞍手地から始めるべきであるし、
天文の研究と古代鉄と、縄文馬、背振山の伝承。
これらを追求する事で実像に迫る事が出来ると思いました。
(古代馬は馬見神社・日若神社に少し書いてます。)
物部二十五部人と出身地
『日本の神々 神社と聖地 九州』の奥野正男氏の文章にも
鞍手郡を中心とした地名と物部氏の関わりが書いてあったので、
ちょっと抜き書きしておきます。
若宮町の芹田(せりた) 芹田物部
都地(とち) 十市(とおち)物部
小竹町の小竹(こたけ) 狭竹物部
鞍手町の新北(にぎた) 贄田(にえた)物部
飯塚市の新多(にいだ) 二田物部
遠賀町の島門(しまど) 嶋戸物部
宗像市の赤間 赤間物部
北九州市の旧企救(きく)郡 聞物部
など物部二十五部人の居住地と見られる地名が残されている。
彼らの名前が出身地にちなんで付けられて、古里を離れて、日本の歴史の深い所で活躍したのが伺えます。
次回は古代鉄にチャレンジするかな…。
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場所が場所ですから。
物部氏の事はホント名前だけが有名で、私も知識はゼロです。
なのに、気になる氏族です。
先入観をもたずに、知りえた事だけ伝えようと思っています。
これからも、よろしくお願いします。
どうしたらいいか教えてくださいませんか?
お忙しいと思うので、時間があったときにお願いします。
エキサイトさんには、ブログスキンを作成する会社に、この引用の枠をちゃんと作るように確認して欲しいなと思っていました。
逆に、ブログスキンを選ぶ時、この枠があるかどうかを基準に探しているんですよ。
自分のスキンの投稿画面で、範囲選択して、「”」をクリックしてみて下さい。経験では7割ぐらいのスキンで使えませんでした。
試して見ます。
この話と那珂川町に伝わる暦法の眞鍋家と補完し合います。ヒッタイトはハッティーとも言い、それがハチマンとなったという事です。宇佐八幡と関連します。いよいよ、古代鉄を頑張んないといけないかなあ。
宮地嶽古墳の近くの丘は鉄を採った後のカナクソで山になっているそうです。名島神社に書いていますが、三笠宮もオリエント研究に向かわれました。
最近、久留米のある場所に大変注目しています。まだまだ仮説の段階ですが、そのうち明らかになると思っています。
さて、浮羽物部氏の末裔の方の伝承は、これからどうされるのでしょうか。町史などにも収めるべきものではないかとも思うのですが。
眞鍋氏の研究は那珂川町が本にして、天皇家まで提出してあります。
浮羽のは古代史研究の新たな発見です。是非最良の形で世に出して下さいませ。そして、私には、こそっと見せて下さい。(*^_^*)
でも、その世界各国を回った方、是非本にしていただきたいですね!だって九州の古代人は9割が渡来人です。そのルーツを外国で探さないといけないんですから。
本家の調査は困難でしょうが、形になる事を願っています。
遡って読んでいて気になったのですが、『552年の仏像を巡っての対立』とはその仏像とは何で、どこのお寺かに今も残っていたりするのですか?
ぜひ詳細を知りたいです!
ここは私は「仏教の受け入れ」と解釈していました。眞鍋さん特有の書き方かなと。しかし、かのんさんの疑問のように、具体的にお寺があるのかも知れませんね。注意してみます。
それと、昨日、古事記の神々の方に、福岡の蘇我や平群を地図に乗せて見ました。那珂あたりが全く分からないのです。改良して行きたいので、御意見よろしくお願いします。
背振山を中心とした蘇我氏たちの争い。頑張って、投稿して行こうと思います。『古事記の神々』の方で出していく予定です。裂田のうなでなんかも、資料があります。早く行きたくなりました。
ブログ、お邪魔します! (^。^)
鞍手が解明されたら、日本の古代史がひっくり返るほど、重要な所だと思っています。
町の観光マップには神社への関心が薄いのか、由緒や祭神の記述がありません。
八剣神社だってすごいんです。
教育委員会などが本腰を入れてくれたら、いいなといつも思っています。
町の皆さんも、どんどん町を探索して下さったらいいなと思っています。
これからもよろしくお願いします。
古門で育ちました。現在は関西に住んでいます。
地図にない古い地名や合祀される前の社の名がお役にたつでしょうか。
古物神社に合祀されている布留神社(剣神社下宮)は、古物神社よりすこし北の古野谷にありました。上宮は龍神社といいました。
古野谷の北に松尾神社と御口大明神(保食神社)がありました。
更に北側にずんずん行くとコンクリ工場やモールド工場がありますが、春日原といいます。 今の地図には載ってませんが・・・
古物神社は何度か合祀されていたので、ガイドブックに記載するとき、読み解くのが大変で、出版社の方がかなり調べてくれました。
歴史的にもっと研究されてよい地だと思いました。
地図は、もしメールで送れるようでしたら、サイドバーのメール欄を御利用ください。
そうでなかったら、また御一報くださいませ。
また、嵯峨野では、真言宗の最大流派である広沢派の根本寺である遍照寺が十一面観音(本地垂迹説で天照大神)と大日如来(両部神道で天照大神)を祀り、遍照寺旧寺領内の 阿刀神社が昧饒田命(うましにぎたのみこと)を祀っています。葛野と鞍手の間に5世紀くらいから宗像社を介して行き来があったのではないかと思っています。
びっくりです。
中部とは大島の姫神になるのでしょうか。
天文の伝承、葛の話、興味深い物ばかりですね。
資料を読んでみたいです。
お話ありがというございます。
鞍手-宮田-直方も 宗像神領でしたし、鞍手の中心も中山ですし・・・
私は「中部」は、そのまま解釈すれば、いいんじゃないかと思います。
松尾大社は、宇迦之御魂命を祀る伏見稲荷とセットで建立されましたし、大山咋命のことだという解釈もできそうですね。
鞍手までは聞いていたんですが、かなりの広さですね。
「中部」それも有りですね。
ところで、葛の話はどんな話ですか?
最近、藤と葛がきになっているのです。
植木町、直方町・福地村・新入村・頓野村・下境村は鞍手郡でした。
江戸時代の直方は、東蓮寺藩(1623年~, のち直方藩と改名)でしたが、このときは、今の鞍手町の南半分にあたる剣村も東蓮寺藩でした。
それ以前の勢力が最大の時代としては、
1281年、弘安の役(蒙古襲来)。防戦の功で宗像長氏が鎌倉幕府から肥前国神埼荘を賜る。
1336年、宗像大宮司氏、鞍手郡若宮荘を押領(旧領を取り戻す)
1334年、宗像大宮司氏が麻生氏の帆柱山城を攻撃。
1336年、宗像大宮司氏、鞍手郡楠橋荘(北九州市八幡西区)を併合。
更に、尊氏に加勢し京都に転戦、褒賞として糟屋郡を賜る。
広いですね。
それ以前の歴史で、
645年、大化の改新。同時に胸形神郡の大領制度化。遠賀郡の郡司も宗像氏が兼ねる。
654年、胸形君徳善の娘(尼子娘という、天武天皇の妃)が高市皇子を出産。
1187年、平家滅亡後、頼朝の命で大宮司氏が筑前国鞍手領を左女牛(さめがい)若宮に寄進。(吾妻鏡より)
とあって、
12世紀末に頼朝により縮んだが、14世紀に取り戻した過去もあったようです。
東蓮寺藩とか、直方の神社で初めて見て、驚いたことを思い出しました。
645年には宗像神郡があったんですね。
なるほど。
このころ、宗像氏の居館はどこにあったんでしょうか。
許斐山あたりでしょうか。
・秦氏の天文観測 - 嵯峨野の月見の名所が暦の観測と関係しているようです。
・修験道-仏教関係で、南丹~愛宕郡の 星峠-三頭山-地蔵山-竜ケ岳-愛宕山
・真言宗 星まつり
・太秦 陰陽寮の天文博士 天心十字法
・北摂 能勢の妙見山の北辰信仰
など・・・具体的なご紹介は追々まとめます。 月、蛇、龍、甘饒田命、事代主満載で。
鞍手の昔の話、いずれ地図を見ながら突き合わせていきたいと思います。
一つひとつお返事できませんが、思うままに書いてくださいませ。
よろしくお願いします^^
るなさんからのもう1つのお題、 近畿における「藤」と「葛」ですが、
両者の関係は、
・「倭根子(やまとねこ)」と「山背根子(やましろねこ)」の関係、
・「伊勢の天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)」と「比枝の大日如来(天照大神,あまてるのおおかみ)」の関係、
に象徴されるということでしょうか?
壬申の乱で復活した「葛」の凋落のきっかけが、
729年、長屋王(胸形君徳善の曾孫)の失脚
で、仕上げは、
832年、(卜部)藤原千歳麿の宗像下向、宗像大宮司氏継承。
このあと、筑紫も「藤」一色になっていくという理解をしました。
「葛」の挑戦は、その後も何度も起きたようですが・・・
「葛」とは何を象徴しているのですか?
既出かもしれませんが、 これが念頭にないと上のコメントが理解できません。
真言宗を興した弘法大師(空海)は、昧饒田命を祖とする阿刀大足の甥で、彼に学んでいます。阿刀氏は、壬申の乱で大海人皇子について復活した物部です。
また、空海は唐に渡る前後に、旧鞍手郡の福智山に長期滞在しています。
日本書紀における「神功皇后の近畿凱旋時の話(特に神戸の長田神社)」では、
「葛」と「藤」は、どう解釈すればよいのでしょうか?
なんでこんなことを思ったかといいますと、
「葛」と「藤」って、並べて書くと「葛藤」だなぁと気づきまして、戯れに
「葛藤」を辞書で引いてみました。すると、いくつかある意味の下の方に、
「根は同じなのに相容れない間柄」や「もつれあう互いに譲れない間柄」
のような意味もありました。
でもって、いろんな辞書をひくと面白い文例が出ていました。
(a)「葛城氏と藤原氏の葛藤」とか(b)「藤原氏内部(特に北家と)の激しい葛藤」
とか出ています。
?と思ってちょっと調べてみました。
(a)は葛城王と不比等のことでしょうか。
・葛城王、のち橘朝臣を賜ふ。井出左大臣橘諸兄公は葛城王と県犬養(橘)三千代の子。
・葛城王が大宰帥に任じられ筑紫下向中に三千代は藤原不比等に奪われる。
・県犬養(橘)三千代は、のちに法隆寺の建立を発願。
・山背王(藤原弟貞)は、長屋王(高市皇子の子)と不比等の娘・長我子(母は三千代)の子
・橘奈良麻呂は、井出左大臣橘諸兄(葛城王の子)と不比等の娘・多比能の子
山背が「藤」で、奈良が「葛」ですか! 山背といえば葛野、葛城氏の出自と宗像氏の関係。混乱してきました。
(b)は、葛城王の血統が藤原氏に入っていった結果でしょうか。
近畿の方の話はまだ理解できない状況にありまして、
長田神社の話に「葛」と「藤」が出てくるのも想像もつきませんでした。
どういう話でしょうか?
最近、「葛」が「かつ」と読め、「勝」のついた地名が神功皇后伝承地に多くみられる点、
また、「葛」と「藤」は同じ植物だということ、
実際に「葛原」と書いて「ふじはら」と読むところもあることなど考え、
「葛」と「藤」とは何だろうかと考えていたところでした。
長田神社の話は、神功皇后の東帰の際の話らしいので、遠賀の住吉神社のコメントに入れておきます。
分かりました^^
古いコメントを読み返して、自分が書いた内容が理解できないでいます(;^ω^)