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ひもろぎ逍遥

銀の冠と法隆寺の関わり

鞍手町歴史民俗資料館(福岡県)

銀の冠はどんな時代を見た?
法隆寺との関係って?


歴史資料館に行くと、思いがけない出会いがあります。
この歴史資料館で、ひとめぼれしたのが、この銀の冠。
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これは復元レプリカです。銀色と青との組み合わせが印象的。
下の写真が現存する本物です。
銀の冠と法隆寺の関わり_c0222861_11162544.jpg

こんな冠が古墳から出土したんだそうです。王さまのかな。王妃さまのかな。

調べてみると、この古墳は盗掘されていましたが、副葬品がけっこう残っていて、
武器、馬具、工具、などの鉄製品と土師器、須恵器がありました。
すると、被葬者は男性ですね。7世紀中葉から後半の築造だそうです。

次は資料館内の説明書きです。
7世紀前半、銀冠塚古墳出土
純銀製の冠は国内で唯一のもの。
法隆寺の夢殿の秘仏である救世薬王菩薩の宝冠の文様と
基本的に同一で、大変注目されます。

古墳の名前はそのものずばり、銀冠塚
築造年代は資料によって少しずつ違っていますが、どちらも7世紀だという事です。
さらに他にあった説明を集約すると、
これは鉢巻き状の帯冠で、ハチマキの部分に透かしの文様が彫られている。
銀製の冠は全国に四例あって、特に浅間山(せんげんやま)古墳(千葉県)と同じ形式である。

福岡と千葉と離れた地点に同じ形式の銀の冠があるんですって。興味深いですね。
でも、今回注目したいのは、法隆寺にも同じものが見られる点です。

これが鞍手町の立冠です。
銀の冠と法隆寺の関わり_c0222861_11191492.jpg

これは法隆寺の釈迦三尊像の脇侍佛。
銀の冠と法隆寺の関わり_c0222861_1122974.jpg

ほらね。冠の所をよく見て下さい。中央の三角形がそっくりでしょ。これは驚き!

なんで法隆寺の冠と鞍手町の冠がそっくりなんだ!?

薬王菩薩像の冠を観察すると、後ろや脇などにも装飾があって、
耳の上の方からは、おしゃれに布を垂らしています。優雅です。
この冠は当時の最新、最高のデザインだったのでしょうね。
だって、仏像を依頼されたら、誰だって一番最高の物を作りたい。

もしこの二つの冠が同じ様式だとすると、
鞍手郡の銀の冠も同じようなデザインだった可能性があります。

法隆寺か…。
行ったことはあるけど、何も知らないよ。辞書を調べると、
法隆寺は607年、聖徳太子の開基・創建と伝える。
670年に焼失し、8世紀までに漸次再建。

とあります。すごい名前が出て来ました。
この冠は聖徳太子が作らせた寺の仏像と同じ様式なんだ!

この古墳の被葬者と聖徳太子は同じ時代を生きていた。

この法隆寺の薬王菩薩像は623年作と分かっています。
聖徳太子が亡くなって、造られました。
造ったのはあの有名な鞍作止利(くらつくりのとり)です。
百済の様式だそうです。中国北魏の様式と書いているものもあります。

すると、同じデザインの鞍手町の銀冠も鞍作止利の管理する工房で作られた、
あるいは模倣したものと考えられます。
銀冠塚古墳の冠も日本で作られ、当時の最新で最高のものだったんですね。

この古墳は7世紀なので、西暦600年代です。
この古墳の被葬者が生きていた時代の筑紫の情勢を、にわか勉強してみました。
602年 新羅に滅ぼされた任那を取り返すために、
      聖徳太子の弟来目皇子が将軍となって筑紫にやって来て、
      病気で倒れて翌年死去。
603年 聖徳太子の弟、当麻皇子を将軍として筑紫に派遣するが、
      妻が死去したので引き返す。
605年 鞍作止利が造仏の工に任命される。
     高句麗から建造費として黄金300両が贈られる。
607年 聖徳太子は遣隋使を派遣する。
621年 聖徳太子薨去。
623年 法隆寺の釈迦三尊像が作られる。
655年 斉明天皇即位。のち百済救援のために筑紫の朝倉宮に遷都。
661年 斉明天皇、朝倉で崩御。
662年 天智天皇 博多で即位。
663年 白村江で大敗する。
668年 草薙の剣が新羅の僧に盗まれる。

任那(伽耶)をめぐって、新羅とずっと戦っている状態です。
一方、百済、新羅、高句麗など、韓半島との
人と物の交流がかなり盛んです。
668年には八剣神社古物神社でおなじみの「草薙の剣盗難事件」が起こっています。

この古墳の被葬者はこの時代の人なんですね。
「神社の伝承」と「古墳の出土品」と「法隆寺」が関わりあうなんて驚きです。
しかも、鍵は法隆寺にあった。

この鞍手町は物部氏の本貫地です。これまで、調べたのを振り返ると、
物部氏は天皇家に軍備の援助をし、天文の技術で支えました。
天皇家が九州に来ると、この地を経由して筑紫に入って行きます。
そして、船や武器や軍馬、武人などの調整が行われたと考えられます。

被葬者は、もしかしたら、来目皇子と会ったかもしれませんね。
あるいは当麻皇子、斉明天皇、天智天皇などの誰かと。

次々と新羅との戦いのために筑紫にやって来る皇族と
対面する身分であった事をこの銀の冠が証明しています。

軍備の援助の代償として、当時の最高の銀の冠が献上されたのかもしれません。

鞍作止利は名前の通り、もともと馬具の製作をしていた人です。
この古墳の被葬者も馬具と工具を持っていました。
妄想すれば、この二人にも何らかの関係があったとも考えられます。
だから、法隆寺の仏像と同じものを贈呈したと。

妄想が進むと、この銀冠塚の被葬者がモデルだった可能性もあるぞと考えたくなりました。
だって、鞍作止利が渡来人の子孫なら、この鞍手を通ったはずです。
この鞍手で馬具造りを指導していて、都の仏像作りを依頼された可能性、
ゼロじゃないですよね。

さて、銀冠塚古墳の所在地は
福岡県鞍手郡鞍手町大字八尋字大谷
遠賀川の支流である西河の狭小な谷を見下ろす丘陵上にあったそうです。

古墳はもう失われているそうですが、この冠は下の資料館で見る事が出来ます。
鞍手町歴史民俗資料館
福岡県鞍手郡鞍手町大字小牧2097
TEL  0949-42-3200
開館時間 9:00~17:00
休館日 毎週月曜日、国民の祝日、毎月第3日曜日
入場料 無料 


地図 歴史資料館 銀冠塚古墳 古物神社


この銀の冠の背景を楽しむための、お散歩コース
八剣神社 ⇒ 古物神社 ⇒ 歴史資料館

海が見たくなったなあ。
次回は玄海灘の難所の織幡神社に行くぜよ。


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Commented by 片男佐分家奈多男志賀女混血児 at 2010-07-08 21:07 x
子供の頃より勝馬と奈多、和白と香椎宮のつながりを疑っていました。
博多湾と大和朝廷、海神族。当家のルーツが浮き上がり、感激です。
先人の宮司さんは大変苦労されたと思います。
ルナ様のご活躍お祈り申し上げます。
Commented by miyata-illust at 2010-07-08 22:00
すごいですね!ずいぶん昔から、西洋でいうところのティアラのようなものが存在していたのですね。
福岡までには遠くて行けないけど(笑)ちょっと見てみたいです(^○^)
Commented by lunabura at 2010-07-08 22:13
片男佐分家さん、コメントありがとうございます。
この名前は香椎の方でしょうか。
宮司さんとは、どちらのお宮でしょうか。ドキドキしています。
いろんな神社を書きながら、失礼がないか、大変心を配っています。
また、真実を知りながら、ブログに書かない事も多々あります。
このようなコメントをいただいて大変うれしく思います。
奈多と志賀も、まだまだ沢山書かせていただきたいと思っています。
どうぞ、これからもよろしくお願いします。 (^-^)
Commented by lunabura at 2010-07-08 22:23
ミヤタイラストさん、こんばんは。
HPを見せていただきました。
イラストのプロだったんですね♪
仕事場の写真でワコム、しかと見せていただきました。
マンガも楽しかったです。癒されました。

このティアラは完全に世の中から忘れ去られていたようですね。
絵を描こうと思うと、こんなデザインにはついつい魅入ってしまいます。鞍作止利さんもさらに調べたら面白そうですが、
ブラブラの精神を貫いて、今度は美しい海を皆様に紹介するつもりです。(*^_^*)
Commented by jumgon at 2010-11-19 22:52
法隆寺の釈迦三尊像の脇侍佛と同じ冠が出土していたなんて、驚きです。法隆寺でこれを見たことは何度もあるのに、頭の上まで細かく観察してなかった。第一暗いからよく見えないし、、、、。こういうのは写真で見た方が分かりやすいですね。
Commented by lunabura at 2010-11-20 09:21
そうですね。こんなすごい話も、マスコミなんかに取り上げられないと、誰も知らないで終わってしまいます。この時代だから、写真が出ていて、比較出来るんだなあと思います。
Commented by jumgon at 2011-05-16 15:30
当麻皇子なんて、この記事を読んだのに何も覚えてませんでした。
603年に筑紫に来ていたのですね。當麻寺の前身を建てたのはこちらに来る前かどうか?
あちこち読むうちに、少しずつ関連づけて考えられるいうになりました。
Commented by lunabura at 2011-05-16 17:16
そうそう。歴史上の人物はあちこちで出会って、ようやく意識上に上ってくるみたいですよね。私もこれで、ようやく二人の名前を覚えました。
遠くて近い、近畿と筑紫です。 (^-^)
Commented by エルメス ボリード at 2013-10-08 17:51 x
ミュウミュウ 新作
by lunabura | 2010-07-08 11:44 | <歴史資料館・博物館> | Comments(9)

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