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織幡神社(5)沈鐘伝説と海女


織幡神社(5)
沈鐘伝説と海女

この神社の麓の参道は公園化されています。

沈鐘(ちんしょう)伝説

参道に入ってまず目に飛び込んで来るのがこの巨大な石。
これは、近くの海底から引き揚げられたものです。
昔から何度も試みられて、ついに炭鉱王が引き揚げました。
鐘が沈んでいるはずだったのに、石でした…。
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巨石のそばの碑文を書き写します。( )内を補っています。

沈鐘と巨石

昔の人は、金崎(という旧地名の本来の意味は)は鐘崎で、
ここには海の向こう(韓半島)から来た釣鐘が沈んでいると語りつぎ、信じて来た。
そして宗像興氏黒田長政など、その権力にまかせて
この釣鐘を引揚げようとしたが、失敗に終った。
ところが大正8年に山本菊次郎なる人が万金をつぎこんでこれを引揚げることに成功した。
しかし姿を現したのは釣鐘ではなくして、このような巨石であった。
人びとはがっかりしたが、いまでも本当の釣鐘は海底に沈んでいるとおの思いを捨てかねている。
このような話は沈鐘伝説といって諸国に例があるが、ここのは、そのもっとも有名なものである。
沈鐘と巨石。夢と現実。まことに面白い郷土鐘崎の物語である。
昭和49年10月  碑文 福岡県文化財専門委員 筑紫豊

ほんとうに鐘の形をしていますね。
嵐の時にはその鐘の音がすると言って万葉時代から恐れられていたものです。

この沈鐘伝説は各地にあるそうですが、
福井県敦賀市気比にもあると聞きました。これを聞いてびっくり。
何故なら、この宮の御祭神の武内宿禰と不思議な関わりがある所だからです。

その話を伝えるのは『古事記』です。『古事記の神々』の神功皇后から一部写します。

御子と気比の大神
さて、建内の宿禰の命はその御子(応神天皇)を連れて、
みそぎをしようとして、淡海から若狭の国へ行った時、
越前の国の角鹿(つぬが)に仮宮を造って滞在されました。
すると、その地の神イザサワケの大神の命が夢に出て来て、言われました。
「我が名を、御子の御名と交換したいと思う。」
そこで、建内の宿禰は言祝いで(ことほいで)言いました。
「畏れ多いことでございます。お言葉の通りに変え奉ります。」
と申すと、さらに大神が言われました。

「明日の朝、浜辺に行きなさい。名を交換したしるしの贈り物をしよう。」
そこで、翌朝、浜に御子が行かれると、
鼻が傷ついたイルカが浜辺全体に打ち上げられていました。
御子が言われました。
「私に大神の食べ物の魚をくださった。」と。

こうして、大神の御名を称えて、ミケツの大神と名をお付けになりました。
これから、今でも気比(けひ)の大神と言います。
また、そのイルカの鼻の血の匂いが大変臭かったので、
そこを血浦(ちうら)と言います。今は都奴賀(つぬが)と言います。

不思議な話ですよね。
武内宿禰が幼い応神天皇をわざわざ近江から日本海へ連れて行っています。
それだけでも不思議な事ですが、その地の神が
「自分の名前と御子の名前」を交換しようと言って来たというのですから尚不思議です。

気比神社織幡宮武内宿禰でつながっています。
気比にも沈鐘伝説があって、気比の鐘は逆さまだそうです。
そこの地名は金ヶ崎。ここの地名は鐘崎。かなりの共通項がある。

その訳は「海女」の伝承を見ると見えて来ました。

ここ、鐘崎は海女の発祥の地
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筑前鐘崎海女の像
これも、参道にある彫像です。碑文を写しましょう。

海女発祥の地 鐘崎
ここ鐘崎は、古来風光明媚、海路の要衝として万葉の古歌に詠われ、沈鐘伝説で名高い。
先祖は鐘崎海人と呼ばれ、進取の気性に富み、航海術に秀で、各方面で大活躍をした。
特に潜水の技術に優れた鐘崎海女は「西日本の海女発祥の地」として有名である。
海女の出稼ぎ地であった能登・長門・壱岐・対馬には枝村(分村)ができた。
海女の使用した道具は、県の文化財に指定され保存されている。
功績をたたえ、航海の安全と豊漁を祈る。
平成7年4月吉日    筑前鐘崎海女保存会


この海女の伝承を追いかけた本があります。
それを見ると海女たちの具体的な暮らしが見えて来ます。
その中の一部を抜粋しましょう。
鐘崎の伝承には、済州島に行った地元の漁師が
島の海女と結婚して郷里に連れ帰り、海女漁をひろめたというのがある。

また、能登の輪島の海士町の人びとは、
数百年のあいだ、日本海を往来していた鐘崎の海女たちが、
仮小屋を建てていたのを、藩主があわびを買い上げて定着の地を与えたのがはじまりだという。
対馬の曲(まがり)の海女たちも似た経過をたどって、
対馬沿岸一帯の漁業権を受けて住みついたのだった。

それほどに海は共同のもので、漁法も海の信仰も彼我共通性があったのだろう。
鐘崎の海女の足跡は能登や対馬ばかりでなく、日本海沿岸の浦々にはそこここに残っているし、
また壱岐から東シナ海に洗われる五島列島から天草にかけても、
鐘崎の海女の出漁の跡がある。
さらに瀬戸内海づたいに、四国沿岸にも筑前鐘崎から来たという浦がある。
このように諸方面の海へ、数家族ずつが、長い期間漁に出かけていたのだった。

森崎和江『海路残照』

この海女の行動半径と、武内宿禰の伝承の重なりを考えると、
鐘崎と気比のつながりが深かったのが見えて来ます。
鐘崎の海女たちはよく似た地形を見つけて、鐘ケ崎と名付けて、古里の伝承を伝えたと思われます。

考古学的にも、弥生時代遠賀川式土器が、
山陰、若狭湾沿岸、福井平野へと伝わっているそうです。
こうすると、海女たちは漁法だけでなく、最新の土器をもたらして、
歓迎されていたのかもしれません。

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(弥生土器 飯塚市歴史資料博物館にて 一階は撮影許可)
飯塚市は遠賀川流域です。デザインも素敵な土器ですね。
こんなのを各地で作ったのかな。それとも、船で運んだのかな?
学芸員の人はすぐ分かるんだろうな…。

海人族たちはかなりの距離を自由に行き来していたのがよく分かります。
弥生時代って、今から2300年ほど前から1700年位前です!
弥生人の行動半径って、広いですね。


次回はずっと時代が下がって、この岬のそばにやって来た黒船の話です。



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by lunabura | 2010-07-10 14:11 | 織幡神社・おりはた・宗像市 | Trackback | Comments(2)
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Commented at 2011-01-18 13:20 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by lunabura at 2011-01-18 14:42
そうですか。早く状況が好転するといいですね。
織幡神社を自分でも、久し振りに読みなおしました。史料がよくぞ集まったんだなあ。
おととい、芦屋歴史資料館で遠賀川式土器について尋ねたんですよ。今では、それを細分化して名称がついているそうです。そして、土器を運んだのか、現地で作った可能性はないのかと尋ねたら、どちらも出来るので、決められないとの事でした。技術者がいれば、現地で簡単に焼けるそうです。
武内宿禰を調べるには、かなり奥まで調べないといけないみたいですね。
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