2010年 07月 28日
桜井神社(3)21歳の藩主・黒田忠之公の悩みと神威
桜井神社(3)
21歳の藩主・黒田忠之公の悩みと神威

この神社を創建した人が筑前福岡藩の二代目城主・黒田忠之公という事で、
今回は忠之公の人生を簡単に辿ってみようと思います。
(年齢は西暦から単純に計算したものなので、誤差があります。)
父君は黒田長政公。初代のお殿様です。
祖父の黒田如水と共にキリシタンでした。
長政公は関ヶ原の戦い(1600年)の後、筑前博多に来て、
すぐに福岡城の建設に取り掛かっています。
その城の瓦に十字架が刻印されていたのが最近発見されて、話題になりました。
長政公は1587年の秀吉のバテレン追放令のあと、
キリスト教を捨てたと言われています。
城はその後に建設されたので、この隠された十字架は信仰を捨てていない事を
見えない所で示した証しだと言えます。
黒田忠之は1602年に長政公の長男として生まれました。
忠之が12歳の時には大阪の冬の陣、夏の陣がありました。
ところがその後、父長政公は忠之を見限って、
廃嫡(はいちゃくー跡継ぎをやめさせる)しようとします。
家臣の制止によって、それは実行されませんでしたが、
13歳の少年には大きな心の傷を残しました。
その年に徳川幕府がキリシタン禁教令を出して、長政公はそれに従い、
キリシタン弾圧を始めます。
そんな父の姿を忠之は見たはずです。
そして、忠之が21歳の時に父が死去。
若き忠之公が二代目藩主となりました。
21歳の若殿様です。危なかしくって当たり前の年でした。
父の家臣たちと、自分の新しい側近たちの葛藤が始まります。
27歳の時、長子が誕生しますが、夫人が23歳の若さで亡くなってしまいます。
31歳の時、家臣の栗山利章と対立。
栗山に「黒田氏謀反の疑いあり」と幕府に訴えられてしまいます。
これが黒田騒動です。
この騒動は結果としては、無事におさまりました。忠之公は53歳で亡くなりました。
その忠之公と桜井神社はどう関わったのでしょうか。
1610年に浦新左衛門の妻に神懸かりがあります。
この方は、それからは浦姫様と呼ばれています。
浦姫様の噂はお城まで届き、忠之公は家臣を使いにやって、よく当たるのを知って、
みずから尋ねるようになりました。
24歳の時に神託で天照大神宮を建立。
30歳の時に本殿を建立となっています。
この年に黒田騒動です。
やはり浦姫様のご神託を仰いだらしく、浦姫様はそばの榎木に登って、
江戸を霊視してアドバイスをしたそうです。
忠之公が夢で告げられた句も伝わっていました。
「しるへにや 雀の千声 鶴の一声」
(家臣たちの千のアドバイスより、神の一声が自分の道しるべだ)
忠之公は藩主となってから、ずっと浦姫様に相談しながら、政をしていったのが伺われます。
家臣のアドバイスより重視したので、
古くからの家臣たちとの軋轢(あつれき)を生んでいった可能性もあります。
彼の宗教観を考えると、父の長政公がキリシタンだったのに転向していった苦悩を
幼い時に目の当たりにして、神とは何かという事を誰よりも深く考えたと思われます。
自分で霊夢を見て、神の御加護を体験して、この岩戸宮の神を深く信仰しました。
浦姫様は黒田騒動が落ち付いた後、1636年に亡くなりました。
それからは自分の判断で前に進むしかありません。
晩年には真言宗に帰依して東長寺を建立しています。
戦乱の世が終わって、江戸時代に入ったとはいえ、まだまだ、戦国時代の延長にあった時代に、
この岩戸が開かれて、福岡藩の国造りの支えとなりました。
このタイミングの不可思議さを思わずにはいられません。
その神気は、今なお、人々を守っているように思いました。

境内の賽の神神社 石は猿田彦の神
途中ですれ違った青年に話を聞きました。
「神社が初めてと言う人が何故かここに来るようですが。」
「そうですね。私も神社参りを始めたばかりです。」
「どうして若い人に人気があるのですか。」
「縁結びと聞いてます。」
なるほど。そうだったんですね。
いやあ、ここは八百万の神々が祀ってあります。どんな願いも聞き届けて下さるように思いました。

気が向いたら、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村









