2010年 08月 08日
六嶽神社(2)御神体は玉と鏡・十握剣から生まれた三女神と物部(もののふ)たち
六嶽神社(2)
御神体は玉と鏡だった
十握剣から生まれた三女神と物部(もののふ)たち
神社の始まり
『福岡県神社誌』を見てみましょう。
六嶽を上宮としていて、由緒は宗像三女神が影向(ようごう)された霊地である。影向(ようごうー神が一時姿を現すこと)
成務天皇7年、室木の里の里長(さとおさ)の長田彦が神勅を頂いて、この山上に神籬(ひもろぎ)を営んだ。
これがこの神社の始まりで、昔は堂々とした社殿だったが、享禄年間に燃えて、社殿が無くなってしまったので、御神体を下宮に移してその後、社殿が再び作られる事は無く、今わずかに石殿が一宇あるだけである。
神籬(ひもろぎー神が降りる所)
六ケ岳(むつがたけ)は宗像三女神が降臨された霊地で、成務天皇の御世に、長田彦に神示が降りて、
六ケ岳の山上にヒモロギを作って、お祀りをしました。これが神社の始まりです。
昔は山上に社殿が建っていたのが、戦国時代に火災に遭って、無くなってしまい、
石の祠だけが残りました。御神体はこの下宮に移されました。
成務天皇と言えば、ヤマトタケルの兄弟です。
と言う事は、そばの八剣岳でヤマトタケルをもてなした記憶が
まだ新しい頃のお話だという事になります。
(詳しくは八剣神社を見て下さいね。)
そんな時代に、この神社の祭祀が始まりました。
私もずいぶん前ですが、二度ほどこの六ケ岳に登った事があります。
植物相が豊かな山で、最後の急斜面は綱を頼りに登りました。
頂上は大変眺めが良かったのを記憶していますが、社殿らしきものを全く覚えていません。
あったのかも知れませんが…。(今どうなっているのか、登った方教えて下さい。)
御神体は玉と鏡だった
続きを読みましょう。
『宗像宮縁起』の記事に『西海道風土記』に、宗像大神が天より降って、崎門山にいます時から、
「青蕤(ずい)玉」を奥宮の表に置いて、
「八尺瓊(やさかに)の紫玉」を中宮の表に置いて、
「八咫(やた)の鏡」を辺宮の表において、
この三表が御神体の形となって三宮に納めて、人の目に触れないようにした。
これによって身形(みのかた)郡といい、後の人が宗像(むなかた)と言い改めた。
『筑前国続風土記附録』
「奥宮、中宮、辺宮」という三つの宮のそれぞれに御神体が置かれた事が書いてあります。
それはどんな姿だったのでしょうか。具体的に見て行きましょう。
「青蕤(ずい)玉」
「蕤(ずい)」を調べると「垂れさがる花・実」の意味でした。
「青」は古代では「青」も「緑」も青と呼びました。
さらに「灰色がかった白」を指すこともあるので、青か緑が白か決められません。
形は垂れさがるイメージから勾玉っぽいですよね。
「八尺瓊(やさかに)の紫玉」
「八尺」は長さの単位です。
「八尺の長さの紐に通した」とか「大きい」という説があります。
「瓊」は玉。
「大きな紫玉」という事でしょうか。
「八咫鏡(やたのかがみ)」
「八咫」も古代の寸法ですが、「大きい」という意味で解釈されています。
天の岩戸に出て来るので有名ですね。三種の神器の一つです。
普通の鏡のサイズはCDの大きさに近いです。
46,5センチの巨大な鏡が出土したので、これを八咫鏡だという人もいます。
(平原遺跡に関連記事。)
次の写真は地元の古墳から出土した玉です。
(鞍手町歴史民俗資料館)
勾玉がちょうど三色並んでいます。これらの色を古代の人は何色と呼んでたのかな…。
白い勾玉は珍しいです。
御祭神の三女神はこうして生まれた。
古事記を見てみましょう。高天原にスサノオの命がやって来たので、天照大御神が武装して、
迎えるシーンです。
アマテラス大御神は「それなら、そなたの心が清く正しいのがどうして分かる。」と言いました。そこでスサノオの命は答えて、
「それぞれウケイ(うらない)をして子を生みましょう。」と言いました。
そこで、天の安の河(天の川)を中に置いて、ウケイをする時に、アマテラス大御神が先に、スサノオの命の佩(は)いた十拳剣(とつかのつるぎ)を貰い受けて、三段に折ってユラユラと揺らして、天の真名井の水で振りすすいで、噛みに噛んで、フッと吹き捨てた時、息吹きの霧に生まれた神の名は、
タキリビメの命。またの名は奥津島(おきつしま)ヒメの命と言います。
次に、イチキシマヒメの命。またの名はサヨリビメの命と言います。
次にタギツヒメの命。三柱です。 (古事記)
なんと、この女神たちは剣から生まれています。
スサノオの命の十握剣が三つに折られて、
噛みに噛んでふっと吹き出した息吹の中から生まれました。三人の女神は剣の化身でした。
沖ノ島を中心として、沖つ宮、中つ宮、辺つ宮と、三か所に祀られているのは、
この剣が三つに折られた事から来ていたのですね。
この三女神はアマテラスから天下りするように言われました。
日の神(アマテラス)はスサノオの命に本当に悪い心がないのを知って、日の神から生まれた三柱の女神を、筑紫の洲(くに)に天下りさせました。こうして三女神は筑紫の国・鞍手の六ケ岳に降臨しました。
その時、
「そなたたち、三柱の神たち。道の中に降って、天孫を助け奉って、天孫の為に祭られよ。」
と言われました。
(日本書紀)
日の神の言葉は
「これから先、天孫・ニニギの命が降臨されるので、その前に、ここで人々に祀られよ」と解釈されています。
祀る人々とは誰か。
まだ平野が海だった頃に、この山の麓に住んでいた人たちです。
その一部に物部氏がいます。
「物部」の「物」は「武」であるとともに、「祭祀」を象徴します。
「もののふ」とは「武士」「物部」と書きますが、
「祭祀をする者」の意味も含みます。
物部氏と天皇家との関わりがわかる伝承が、いくつかの神社に残っています。
神武天皇、ヤマトタケル、仲哀天皇、神功皇后、聖徳太子一族などの名前が出て来ます。
物部氏は星を観測し、暦を作った。馬を育て、武器を作り、馬具を作らせ、戦った。
剣を神格化して祀った。
そんな、古代日本の礎となった一族だったのが見えて来ました。
そして、三女神を祀るのは水沼族。
ここには水摩姓が多く伝わっていると聞きます。
この六嶽神社と六ケ岳の伝承はあまり人々に知られていないようです。
この神社の持つ歴史的な価値を多くの人に知っていただけたらと思います。
地図 六ケ岳 六嶽神社 神興神社 宗像大社
ブログの中で「物部氏」を時代順に逍遥するコース
馬見神社⇒日若神社⇒八剣神社⇒鞍手歴史民俗資料館⇒古物神社⇒六嶽神社
さあ、それでは宗像三女神の伝承を追って神興神社に行ってみましょう。
追記
物部氏に関して、記事を書いた時点(2010年8月)より研究が進んだので、
記事の一部を変更しています。2015年12月28日
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