2010年 08月 27日
蕨手文様
蕨手文様
伽耶と倭の装飾古墳をつなぐもの
『伽耶文化展』のつづきです。
こんな不思議な鉄器が載っていました。「有棘利器」と言います。

左から3世紀~6世紀(長さ13.5~25.5)
これを見て、蕨手(わらびて)文を思い出しました。
一番左なんかは蕨そのものです。
それが下のように鳥の姿に変化していきます。

5~6世紀(長さ33.6~49.8)
いったい何に使ったんだろう。
棒に突き刺すさめに下部が丸くなっています。
本の解説文です。
有棘鉄器とは、鉄板の側面をえぐって棘(とげ)の形に作った
鉄器のことをさし、鉄鋌を利用して一番簡単に作られる鉄器である。
伽耶地域の有棘利器はおよそ4世紀に出現し、
初期には主に権威の象徴として大型の古墳に副葬された。
その後、伽耶の滅亡を前後する頃には小型の古墳にも埋納されるが、
次第に消滅してゆく。
最近の調査例を見ると、種類も多様で地域ごとに独特の特徴を持っている。
特に陝川地域(伽耶の一部)から多く出土した有棘利器には、
鉄板をえぐって鳥が表現されており、ある種の象徴性が加味されている。(略)
日本では、奈良県藤の木古墳出土の冠装飾に
有棘利器にみられる鳥の装飾文様があり、注目を集めている。
562年 伽耶は新羅に併合されて滅亡。
663年 白村江の戦い 倭は唐・新羅連合軍に大敗。
この利器の使い方は書いてありませんでしたが、
主に権威の象徴だという事が分かりました。
そして伽耶の中でも一部の地方で鳥に変化したようです。
それが日本の出土品ともつながっていました。
そのつながりを指摘された藤の木古墳の冠がこれです。

たしかに、内側は木の枝のように装飾的になって、
外側に鳥のモチーフが見えます。これは6世紀末だそうです。
「蕨手は鳥のモチーフへ」と変化して、倭の王族の冠となりました。
ところが、この蕨手は福岡県の装飾古墳の中では
「蕨手そのもの」として発展しています。

珍敷塚古墳復元図 (日下八光氏製作)
中央の上の方にその蕨手があります。それは靫(ゆぎー楯)の上にあります。
また左の船の舳先に鳥がとまっていて、その上には同心円があります。
「蕨手と鳥」が揃っています。
蕨手ってなんだろう。
蕨手についての説をざっと調べてみましたが、
これといった説が見当たりませんでした。未解明のようです。
それに対して、靫や同心円については、
「氏族のシンボル」と捉える説に出会いました。
「同心円」は「的」の事でイクハと言い、それがウキハ、浮羽となった。
「靫」は「靫負(ゆげい)の大伴(おおとも)氏」の象徴。
これはかなり魅力的な説です。(和田萃氏―下注)
この装飾古墳が浮羽あたりで発達するのを見ると、可能性は高いと思いました。
この説の延長線で考えると、「蕨手」も氏族を指している事になります。
この氏族を仮に「蕨手族」と呼びます。
珍敷塚古墳の絵は
「同心円のイクハ氏」と「靫負の大伴氏」が「蕨手族」を支えている
というストーリーになります。
被葬者は蕨手族の人です。
この蕨手文は他の装飾古墳にも10例ほど見られます。
その中でも、有名な王塚古墳には
蕨手がこれでもかというほど描かれています。

これは入口のすぐ右側にあります。
これを見ると、赤と黒の馬が描かれていて、馬に乗った人物はとても小さく、
それに対して蕨手文はかなり大きいです。
シンボルとして解釈するなら、製作者の意識には順位づけがあって、
蕨手が一番、馬が二番、騎手が三番です。
その心理は「蕨手だ。蕨手のお蔭なんだ」と称えているように思われます。
(でも、馬の方がすごいぞ。)という気持ちもチラリ。
自分が墓を作る立場だったら、何を書き残したいかと考えました。
「遠い所から来て、豊かなクニづくりをした大王が亡くなった。
この大王の出身は蕨手族である。それを支えたのは騎馬軍の私たちだ!」
墓の碑文に書くとしたら、そんな事を書きたい。
それを文字を使わずに表現するとしたら、絵しかない。
壁画は碑文代わりに描かれたと考えました。
短甲にも蕨手があった
蕨手が図録にもっとないかなと再び探してみると、
短甲に蕨手が堂々と付いていました。

伝金海 退来里
高さ66センチ 三国時代 5世紀 国立中央博物館
この短甲には前にも後ろにも蕨手がついています。
戦いの時に自分のクニや氏族を明らかにするためです。
羽根のような刀の形をした部分は首を守るためのパーツです。
戦いに明け暮れた様子が伺えます。
器の取っ手まで蕨手。

高霊 池山洞45号墳 三国時代 5-6世紀 国立慶州博物館
取っ手は指が入るようなデザインが普通の中に、こだわりの一点が…。
やはり、蕨手は紋章的なトーテムの可能性があります。
参考図書
「古代史からみた装飾古墳」 和田萃 『装飾古墳が語るもの』国立歴史民俗博物館編 吉川弘文館 平成7年
『伽耶文化展』 編集―東京国立博物館 発行―朝日新聞社 1992年
王塚古墳の写真以外はこの二冊から転載しました。
文様の氏族紋説についてはコメント欄では足りませんので詳しくは記事等で特集したいと思いますが、そのような説が確かにあります。
それには2点ほど論争点をあげておきます。円文については的氏族に割り当てるにはあまりに普遍的な文様でほとんど全ての装飾古墳で見られると言うことが一点(靫もそれに近い)。逆に蕨手文については王塚、丸山塚等の例外を除いてかなり地域性の強い文様で、大部分が的氏族の本拠地の浮羽郡に重なって描かれていると言う2点です。
蕨手文が鳥の姿に変化していくのって面白いですね!鶏みたいな感じがします。
装飾古墳は一度見たら忘れられないほど、迫力があります。この先、紹介します。先に見たかったら、コメント欄の蕨手さんのサイトで見て下さいね。サイドバーでリンクしてます。「装飾古墳今昔紀行」です。
例えば、同心円ばかりの古墳は、的氏の墓。靫だけのは大伴氏の墓。という可能性を考えました。数千にのぼる古墳は王族だけでなく、そういう一般的な氏族の人たちの墓も含まれるので、自分の氏族の紋章を描いた可能性があると思いました。
顔料が手に入りにくい時代に、それを手に入れた人だけがペインティングできたのでしょう。
この説で他の文様も説明できないか、気になる所です。
有棘利器は日本では見つかってないんですか?
有棘利器については、全くの素人で、今読み直すと赤面です。
日本で出土したかどうかは、分かりません。<(_ _)>
考古学の先生とか、歴史資料館の学芸員の方に尋ねてみてください。
そして、分かったら教えて下さいね (^-^)
この「被衣」に描かれた文様の一種に 頭上あたりに「大紋菊」そして 裾文様に雲の中の「蕨」文様があります。
以前からこのあたりで使用された「被衣」と「庄内暖簾」に蕨文様が一部使用され、意味を持つ表現と思いましたが、わかりませんでした。
単純に山野の春菜とだけの解釈だけではなく、江戸期冠婚葬祭という極めて大衆の耳目を集める重要な場面での 「蕨紋の被衣」の表現文様だけに、何か穏やかではありますが出自(ルーツ)を示す主張が あったと思います。
古代史からは、かけ離れますが、近現代ま続く 何かが表現されていると思います。
ご意見をお聞かせください。
興味深いお話しですね。何か意味があるかもしれませんが、当方は分かりません。追求されていくことで、いろいろと繋がって行くかもしれませんね。
大嘗祭で天皇が絹の"衣"or"掛け布団"で全身を包み、"真床襲衾"の仕来たりをされます。漏れ聴くるところによりますと「ウウウウウ」と低く声が届くとか。それでも図説では、巫女2人が紗の外側に待機しているそうで…。何をされていて、その様な御声を出されるのか?止めていた"声"が漏れてしまっただけなのか? 釈然としません。
お話の"被衣"が用いられる状況の前後が不明ですので、五里霧中になりす。ただ、人目を憚っての作法であろうとは、思いおよびますし、当たらずとも遠からじと。他言無用の禁を破って伝えた、その「う」、もしかすると「あゥっ」であった可能性は否めません。
皇室では"蚕"に"桑の葉"を与え、蚕が絹繭を仕来りにされていおります。その繭でシルクの織物を拵えます。この一連に対して、儀式する意図を言葉と記録で一切を隠しいますが、真相は高位の神官のみぞ知るでしょうか? 世界の神格化された支配層系の習俗には、この答えが隠れてい…。この儀式はそもそもの国生み神話を象徴化し、国生み神話自体が象徴・寓意に置き換えられています。民俗学の大家"柳田"もそれの実態を知ってか・知らずか、勲章と"引き換え券"になされたのか、以降はもされるまで沈黙しました。
裾文様に雲の中の「蕨」文様。
このお話、惹かれました。
蕨は特に九州の古代の円形土盛りや"堀付き前円後半菱形"土盛り内部には植物の"ゼンマイ"風、舟などが描かれた内装仕上げが見かけられす。軒先き瓦には巴文様と"唐草文様"が深遠な意味・理由すら忘れられたまま…。実はこれらは、大変に重要で深遠な真実を抱えております。権威は自分たちの為に捻じ曲げて、伝承させてきました。その為に、偽りを教養・常識と言い換え、あろうことか"試験"にまで持ち込んでプロパガンダを致しました。これは戦後だけではなく、江戸政治とともに変質させる勢力が動きそうしてきたようです。明治維新とは、それを良しとしない人々を抹消する運動であったとも言えます。
徳川から明治政府と文明開化では無いのが事実。









