2010年 10月 28日
東大寺で出土した剣に陰剣・陽剣の刻印を発見・正倉院から移したものだった
陰剣・陽剣の刻印を発見
正倉院から取り下げて大仏の膝元に埋納されていたことが判明
(写真は頼光和弘氏ー一部変更)
25日、東大寺の「陰陽の二振りの剣」についてテレビ報道がありました。
今回発表された二振りの剣は、大仏の膝辺りの土の中から、
明治時代にすでに発見されていたものです。
最近、改めてX線撮影された結果、「陰剣」「陽剣」という文字が
彫られていたのがくっきりと映し出されました。
(元興寺文化財研究所提供)
調査の結果、その陰陽の剣はいったん正倉院に奉納されながら、
「徐物」となって持ち出された剣だという点が明らかになりました。
1250年前の話です。
その詳細の記事を、書き写します。
明治時代に東大寺大仏足元で出土
幻の宝剣と判明
正倉院から1250年間不明
聖武天皇が建立した東大寺(奈良)の大仏足元から明治時代に出土した国宝の「金銀荘太刀」(きんぎんそうのたち)二本が、約1250年間にわたり行方不明だった宝剣「陽宝剣」(ようのほうけん)「陰宝剣」(いんのほうけん)とエックス線調査で分かり、同寺と調査した元興寺文化財研究所(奈良)が25日発表した。
光明皇后が天皇の遺品として東大寺に献納後、正倉院から取り出し、埋納したとみられるが、理由は不明。皇后からの献納品目録「国家珍宝帳」の武器リスト筆頭に記した貴重な宝剣で、正倉院研究の上でも画期的史料といえる。
東大寺と正倉院事務所によると、六百数十点の献納物を記載した国家珍宝帳には、今回の宝剣を含め「徐物」(じょもつ)の付箋(ふせん)を張って、リストから外した宝物が7件あるが、所在が判明したのは初めて。
「陽宝剣」と「陰宝剣」は鉄製で、長さはいずれも1メートル弱。さやは木製の漆塗りで金銀の金具で装飾されている。
明治末期、作業用の柱を立てるために大仏の台座そばに穴を掘った際、右ひざ近くから出土。同時期に見つかった別の太刀、銀製のつぼ、水晶合子(ごうす)などとともに「東大寺金堂鎮壇具」(ちんだんぐ)そして1930年に国宝指定された。
これまで奈良国立博物館が預かっていたが、保存修理に備えて、元興寺研究所がエックス線写真を撮影し、刀身の柄に近い部分に象眼の「陽剱」「陰剱」の銘文を発見した。
(2010年10月26日 西日本新聞)
これが正倉院の「国家珍宝帳」です。
光明皇后が亡き聖武天皇の遺品を納めたリストです。
太刀を百振りも納めていたのが分かります。
そして話題の「陽宝剣と陰宝剣」が筆頭です。最高の太刀です。
寸法や細工のようすが書かれています。紫、黒紫、紅という字も見えます。
その上に「除物」と紙が張り付けてあって、取り下げられた事が分かります。
756年に聖武天皇の四十九日の法要があって、
その時に献納した太刀と特徴が一致しているそうです。
光明皇后が遺品をこうして納めたのですね。
東大寺こそ夫の聖武天皇が建立したものだから、
そこに最高のものをと選んだ気持ちが伺えます。
正倉院内の御物は鉄の刀でも今なお錆びないで光っています。
しかし、この宝剣は土の中に埋められたので錆びています。
それでも、他の鉄の出土物から見ると、ずいぶん良好な保存状態で、
細工のようすもよく伺えます。
これをじっくりと見ると、やっぱり細工がすごい。
宝剣と同時期に見つかったのが、別の宝剣と銀製のつぼ、
水晶の合子(ごうす・ごうし 蓋付きの器。)
(クリスタルの小さな入れ物なんて、すごいなあ。)
具体的な埋納状況が知りたいですね。
東大寺大仏
(この右ひざの下あたりで出土)
光明皇后が取り戻した7点のうちの他の2点については、この夏、
NHKテレビ番組で「天皇の愛用の品を取り戻していた」という内容で
放送があっていました。
あいにく、具体的な品物の名は忘れたのですが、
亡き天皇をしのぶ皇后の思いを初めて知りました。
だから、今回の太刀を知って、あれこれと想像しています。
再放送がないかなあ。
気が向いたら、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村
もし、不都合なら、修正しますので、コメントお願いします。
勝手にすいません
よろしくお願いします
きむら
ブログお邪魔しました。能登なんですね!
一度行こうとして都合がつかずに行けませんでした。
あとでリンクさせてくださいませ (^-^)