2010年 12月 03日
高倉神社(1)日本書紀そのままの古社・神功皇后の船を止める男女の二神
高倉神社(1)
福岡県遠賀郡岡垣町高倉
日本書紀そのままに残る古社
神功皇后の船を止める男女の二神の宮
今回は日本書紀の記載のままの地にある高倉神社へ行きましょう。
この神社への道筋をどう案内したらいいのでしょうか。
北九州市と宗像市の間にある町で、三号線の海老津辺りから
海の方に向かいます。坂を上ったり下りたりしながら、案内板に従っていくと、
人家が途絶え、果樹園の山あいを走り、道は山に向かいます。
何度か訪れるうちに、そうだ、周りの山の形を確認しておこうと
気をつけていると、おおっ、ここにも神奈備山が…。
神社とは関係あるのかな。ワクワクです。
大きな鳥居が右に出て来てそれをくぐるとブドウ畑。
なんとも、のどかな田園風景の中を走るのですが、
低山の間を縫って、古代の道がそのまま残るような趣に
心は古代へといざなわれます。そして、すぐに着きました。
桜の木の下の駐車場に車を置いて鳥居をくぐると、楠の巨木たちが迎えてくれました。
この道をまっすぐ行くと、出口です。本殿は写真の右の方にあります。
神門には、たくさんの御神灯が掲げられて、小粋な感じです。
石段の脇の樹々がどれも巨木で、苔むしていて、歴史の古さを感じさせられて、圧倒されます。
すぐに拝殿に着きました。左右に布があり、正面にまた鳥居があります。
土台を見ると八角形のような印象です。
拝殿の中です。
ここの御祭神は天照皇大神・大倉主命・莬夫羅媛(つぶらひめ)です。
夫婦の神で、仲哀天皇と神功皇后をここに招いた神です。
古代から現代まで場所を変えず、地元の人々の崇敬を集めています。
参拝を済ませて目に入ったのがこれ。
珍しい神紋です。
さて、この神社の謂われを紐解きましょう。
まずは始まりから、境内の由緒書きを意訳します。
当社は日本書紀に書かれている、古い社で、第14代、仲哀天皇が8年春一月に筑紫に行幸された時、岡の縣主(あがたぬし)の祖である、熊鰐(くまわに)が周防サバ浦にお迎えに行きました。海路を案内して山鹿岬から廻って岡の浦に入ろうとした時、神異がありました。天皇は舵取りの倭国・莬田の人・伊賀彦命を祝(はふり)とされました。
神功皇后の摂政二年5月にここに神祠を建てて、神田千町を定めました。すなわち、大倉主命、莬夫羅媛(つぶらひめ)の二神の本宮です。
これは仲哀天皇が都・山口県からいよいよ九州に入った時の話です。
熊鰐と言う人が迎えに行って海路を案内して行く途中、
船が進まなくなったので、その理由を尋ねると、
熊鰐は「私の罪ではありません。この浦の口に男女の二神がいて、
その神の御心ではないかと思います。」と言います。
その神がこの社の祭神の大倉主と莬夫羅媛です。
そこで天皇が、大倭から連れて来ていたウダの人・伊賀彦を
祝(はふり)として祀らせたら、船が再び進んだという話です。
この伊賀彦を祀る祠も残っています。
いろいろと境内を廻りながら、この二神がどうして船を留めたのか、
また伊賀彦がここに祀られているのか、ずっと考えていました。
(つづく)
地図 高倉神社
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八角形みたいな、拝殿は珍しいですね。
日本書記に「莬田の人・伊賀彦命」がでてくるのですね。
高倉神社を検索したら、伊賀にも高倉神社があってビックリしました。
八角形を見て、斉明天皇の牽牛子塚古墳を思い出してしまいました。が、関係ないでしょうね。きっと。
伊賀にもあるのですか。それは面白いですね。