2010年 12月 22日
九州の「飛鳥」に行って来ました
九州の「飛鳥」に行って来ました
福岡県小郡市井上飛嶋
新聞に「九州にも飛鳥の地名があった」というタイトルで
太宰府地名研究会の案内が載っていたので、行って来ました。
古川清久氏による講義とフィールドワークがありました。
講義では地形図と現地写真、また郷土史や地誌の収集、聞き取り調査などが丹念になされていて、
福岡県の小郡市にあった「飛鳥」という地名について概要を知る事が出来ました。
今日はその報告です。
私は眞鍋氏の本に出会ってから「飛鳥」を探していました。
筑紫では水城の南に飛鳥、北に春日の地名があり、大和での北の添上春日、南の高市に明日香の古都が栄えた。 『儺の国の星・拾遺』
九州にも飛鳥があったなんて。いったい何処にあるんだろうと思っていたのです。
春日とは福岡県の春日市の事で、水城とは、この前紹介した
太宰府政庁跡のすぐ近くにある、巨大な堤防です。
県外の方のためにその位置を出しておきます。
春日市 水城 飛鳥(小郡市)
小郡市に「飛鳥」という地名がある事自体、地元の人間にとっても驚きです。
しかし資料によると、明治15年の調査には、「御原郡 飛鳥」と書かれていて
「ヒチョウ」と送り仮名がふってありました。
現在の地名は福岡県小郡市井上字飛嶋(とびしま)です。
もともと飛鳥だったのが、都に同じ名があるのをはばかって飛嶋に変わったそうです。
(近くの徳川という川の名前は得川へ変更され、現在は宝満川へ。)
では、現地へ行きましょう。
小郡市は福岡県の中部、広い筑後平野にあります。
県道500号線から三井高校を目指すと、すぐそばに松崎天満宮があり、
数十メートルで、いきなり大木の森の中に入りました。
平野の中に森があるなんて、初めての景観です。不思議な感じがしました。
そして、すぐに池に出ました。
このような池が四つあります。
ここの地形図を見ると、首の長い鳥の頭から羽根にかけた姿に見えるそうです。
その地形が飛鳥という名の由来ではないかという事でした。
もともと三つの池だったのが、中央に道路が作られて、四つになっています。
中之島のように埋め立てが進んでいて、将来は地形が変わるかもしれません。
池の排水溝からは水が流れ出し、小川となっています。
それを辿ると10メートルほどで平野に出ました。
正面には背振(せぶり)山が見えました。古代にはここも海でした。
近くの地名に「吹上」や「干潟」という名が残っています。
手前の田んぼは溜め池だったそうです。
この田んぼをぐるりと囲む土手沿いに、左の方に歩きました。
振り返って見ると、この森の中にさっきの池があるのが分かりました。
森は古代には無かっただろうという事です。
このカーブは昔の土手の形がそのまま残っていると考えられるそうです。
こうして教えてもらうと、少しずつ地形の見方が分かって来ます。
ここの標高は20メートルほど。
あの70年に一度の津波の時には、ここも潮をかぶったのでしょうか。
田圃の溝からは、すぐに土器の破片が二つ見つけられました。
粒子の荒い砂が入っていて、「ここの土で焼いたのかな」なんて、話し合いました。
この小郡市の「飛鳥」は九州古代王朝説の古田武彦氏が早くから調査をされていて、
「九州・小郡市にある“飛鳥と呼ばれていた地区”の形状が飛ぶ鳥に似ていること、
また近くの麻氐良布(まてらふ)神社の祭神が明日香皇子であることから、
書紀・万葉集にある“アスカ”は大和でなく筑後にあった」という説を出してあるそうです。
ルナは先入観を持たないために九州古代王朝説にはまだ触れていません。
でも、講師の古川氏が「古田史学の会」の会員という事で、
これはチャンスとばかりに尋ねました。
「私は、九州古代王朝説をよく知らないのですが、一言で言えば、どういう説ですか?」
「九州にはかつて年号を持つような王朝があったという説です。
それは白村江の時代までで、白鳳という年号も九州王朝で使われていた年号です。」
「では、その王朝はどこにあると考えてありますか?」
「私は太宰府政庁跡にあったと考えています。雑餉隈(ざっしょのくま)はその迎賓館です。」
なるほど、明快に教えて戴きました。
そうか、これが古代の地形の名残をとどめる「飛鳥」か。
「どうして私はこんな所にいる?」と何度も現地で口走ってしまったのですが、
家に帰ってからも、ずっと不思議な感覚でした。
この平凡な田んぼと池が古都「飛鳥」の跡なんだろうか。
すんなりと入ってこないのは私が無知なせいです。
ここの近辺には歴史的に重要な遺跡がいくつもあるのを教わりました。
かつては広大な境内(二町)を誇る井上廃寺があり、松崎城があり、
昔の役所である、御原郡衙(みはらぐんが)がありました。
三か所も移転しながら存続したそうです。
(上岩田遺跡 7世紀から9世紀 リーフレットより)
またすぐ隣の松崎天満宮には、九州古代王朝説の人たちにだけ分かる、
王朝の存在を暗示するいろんなシンボルがありました。
( それについてはもう一度ここを訪ねて、報告できればと思っています。)
さて、これが冒頭の疑問、眞鍋氏の言う春日に対応する飛鳥かどうかは、
現時点では分かりません。因みに、眞鍋氏は
飛鳥とは太陽の黒点であった。「あすか」はその昔は「かすか」即ち一年の日が尽き果てる意であった。太陽の黒点は不死鳥フェニックスの焼け焦げた死骸の群とみていた。これを「いしむれ」と呼んだ。仏式では祖先の陵墓に参詣の度ごとに小石を積み上げる。神式では「かしは」をささげ、今の玉串奉納の素形である。
「かすか」とは火風の枯渇する季節であり、「あすか」とは地水の旱涸する季節の代名詞で、その起源は中東の砂漠地帯にあったらしい。
と言っています。
池が太陽の黒点のように飛び飛びになっているから、飛鳥なのだろうか。
砂漠の中にオアシスを見つけたように、この池を見つけた砂漠の民がアスカと付けたのだろうか。
まだ他にも飛鳥はあるのかも知れない…とも思いながら、その夜は3時まで眠れませんでした。
九州歴史資料館 移転開館記念 企画展
御原郡衙(みはらぐんが)
会場:小郡市埋蔵文化財調査センター(古代体験館おごおり)
期間:平成22年11月21日(日)~平成23年1月15日(土)
開館時間:午前9時~午後4時30分
休館日:第3日・月曜日、年末年始(12月28日~1月4日)
入館料:無料 0942-75-7555
さて、この記事をUPしようとした朝、古代史ファンのTさんから電話がありました。
「ああ、そこは巨勢氏の中心地。物部氏。畿内に行く前の場所。」とあっさりと。
え?ルナは何故だか巨勢川を八女市内だと思い込んでいた。
天照宮の物部氏の地図を描き変えないといけない。
でも、巨勢川を調べると、筑後川の支流と、佐賀にもう一つある?
よく分からない。どなたか教えてください。
気が向いたら、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村
共鳴するとこもあるけど、主張されてるように白村江の時代まで続いたとは思えない。
でも古代史はまだまだ分からないことだらけだから、そのうち解明されることでしょう。
ちゃんと保存しなくて大丈夫なの?と思ってしまいます。
そういえば、司馬遼太郎さんが小さい頃、母方の実家がある奈良県竹内では子どもたちが、石器拾いをして遊んだと書いてありました。
つわもの共が夢の跡です。
七夕神社と姫古曾神社は別々に行ったのですが、ニギハヤヒー物部でつながっているのですね。これが宗像までも。神社と出土品を繋げて説明していただいて、古代社会が目に見えるようです。
古代を歩く道しるべを頂いたようで、とても嬉しいです。 (^。^) /
太宰府地名研究会にご参加くださいましてありがとうございます。
この日私は参加できませんでしたが、Googleの検索でたどり着いたここで「九州の飛鳥」を見ることができて、とてもうれしい限りです。
さて、今度は「久留米地名研究会」のほうで、古川清久氏もオススメの講演があります。
「鳥子 謎の神社研究者から神社研究の深層を聴く」という演題で、福岡市の百崎由一郎氏の講演です。
2月5日(土曜日)13時30分から、会場は久留米市役所3階305号会議室です。
ご都合よろしければ是非ご参加くださいませ。
詳しくは、久留米地名研究会サテライトブログ( http://ameblo.jp/kurume-chimei/ )でご案内しております。
記事を読ませていただいていましたところ、「巨勢川を調べると、筑後川の支流と、佐賀にもう一つある?
」とのご質問。
佐賀県佐賀市の、その名も「巨勢町」に巨瀬川流れています。あまり大きな川ではありませんのでなかなか見つけにくいと思います。ご参考までにGoogleの地図です。
http://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&rlz=1T4GGLL_jaJP403JP404&q=%E4%BD%90%E8%B3%80%E5%B8%82%E5%B7%A8%E5%8B%A2%E7%94%BA%E3%80%80%E5%B7%A8%E7%80%AC%E5%B7%9D&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl
ただ、ここが「物部」氏に関係あるのかどうかについては、ただ講演を収録しているだけの録音エンジニアの私には分かりかねます。一応ご参考まで。
巨勢川の情報もありがとうございます。やはり佐賀市の巨勢町にあるのですね。
これからもよろしくお願いします。
断りなく書いたので、少し気にしてました。どんどん書いて下さいとのことで、安心しました。
こうして記事にすると、いい所だったなあと、あの不思議な感覚が戻って来ます。
こちらこそよろしくお願いします。