2011年 02月 08日
人丸神社(1)景清の娘が父を尋ねて京からやって来た
人丸神社(1)
福岡県粕屋郡新宮町下府
景清の娘が父を尋ねて京からやって来た
国道三号線の、新宮町大森信号から、海の方に向かって走ると、
左の方に鳥居が見えます。

人丸という名前がずっと気になっていました。
ついに今日は雪交じりの中、行ってみました。
道路のそばに駐車場があり、階段を上っていきます。

300メートルの参道は遊歩道になっていて、桜がずらりと植えてありました。
ここは春には桜の並木道になるんだ。いいとこ、めっけ。
こんな天気の悪い冬の日に撮った写真を掲載するのは神社に申し訳ないなと
ついつい思ってしまいます。
でも、枝だけだから見える景観もあるんだよと自分で慰める…。

気持ちのいい散歩道が終わると二の鳥居に出ました。神殿が見えています。
神社の由来が書いてありました。読んでみましょう。(一部変更)
人丸神社は源平合戦の哀史にまつわる神社で、平景清の娘「人丸姫」を祭神とします。
景清の妻は子供がないことを悲しみ、神仏に祈り続けました。治承二年(1178)3月15日に、朝日(旭)が上る時、懐妊を覚え、女の子を出産しました。「旭」という字は「日」「丸」と書くことから、「人丸」と名付けたと言われています。
その後、平家は壇ノ浦の戦いで源氏に敗れ、景清は源頼朝暗殺を計画しましたが、事前に発覚し、捕われて両目をつぶされて日向の国の匂当に流罪の身となりました。後に景清はこの地で亡くなりました。
人丸姫は幼くして母と死別し、京都北嵯峨の叔父の家で育てられました。13歳の時、父景清に会いたい一心から乳母とともに京の都を旅立ち、はるか西国の日向の国を目指しました。
その旅の途中、筑前院内村(立花口)独鈷寺の末院に父の旧友である僧を訪ねました。そこで父景清の噂を聞き、一日でも早く会いたいと思いましたが、僧が思いとどまるように言い聞かせているうちに、長旅の疲れから病気になり床に伏せるようになりました。周りの人々はいろいろと手を尽くしましたが、建久3年(1192年)11月9日に人丸姫は亡くなりました。
死ぬ間際に人丸姫は、「父に会えずに死ぬことは心残りなので、私が死んだら塚を築いて印に松を植え、日向に向けて葬って下さい。と頼みました。その遺言に従い、ここ飛山に葬りました。
幼少の頃、父を慕ってはるばる京都から下府(しものふ)まで来て、病没の身となった姫の心情から、この人丸神社は世の親として子供の無事成長の祈願参拝の場となっています。
平成18年 新宮町教育委員会
なるほど、源平合戦の時代のお話でした。13歳か…。
中学一年生の年ごろですね。そんな人丸姫が、京から九州までやって来たとは。
ここ新宮町から宮崎に向かうとしたら、かなりの無理があります。
ルートを考えると、また北九州に戻って、南下しなくてはならない。
船で?徒歩で?途中の食糧なんかどうする?僧が思いとどまらせるのも無理ないです。
しかし彼女は残念な事に、この地で亡くなってしまいました。
この神社はそんな人丸姫が御祭神でした。

石段を少し上ると拝殿です。お神酒などが供えてありました。
参拝を済ませて、ぐるりと廻ってみました。
この神社の境内は狭く、後はすぐ崖のようになっています。
しかし左の方だけ、フラットになって、地続きになっていました。
例えれば、前方後円墳の円墳の上に建っているような感じです。
ここに人丸姫を埋葬したとしても、もともと古墳あとか何かじゃないか。
あるいは、もともと人々が神聖視した場所だったから埋葬したんじゃないか。
そんな疑問が浮かんできました。
緩やかな傾斜の参道を戻っていくと、左右は崖だという事に気づきました。
右側は住宅地の屋根が見えます。左は下の方に畑があります。
この地形、よくあったよね。そう、ルナが勝手に弥生の風景と呼んでる地形。
この参道はもしかして古代の岬じゃない?
左の崖の下の田んぼは海?右も海?
神社からは木立ちで見えなかったけど、立花山が見えたはず。

そう思いながら一の鳥居に戻って来ると、ずっと向こうに松林が見えました。
その向こうは玄界灘です。やっぱりそうだ。古代はここまで海だったんだ。

道路から神社を写しました。神社正面あたりの森の中です。
参道は左の方に向かっています。
右の高台にあるビルの方には、古墳がかつてはありました。
古墳の名前は人丸古墳です。そして、この神社の名前は人丸神社。
実は「人丸」という字を見て最初に思ったのは柿本人麻呂の事でした。
何故こんな所にと思って確認しに来て、推測がはずれたのです。
けど、どうしてか、この神社の下には何かあるという思いが消えない。
都から来た少女を何故ここに埋葬したのだという疑問が残る。
普通なら、引きとめた僧の寺の方がよさそうだ。
鎌倉時代の下にもっと古い時代があるのでは。
と思いながら、帰ったのですが、
(つづく)
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姫に突然この事実を話すべきでは無いと思った僧は、日向行きを思いとどまらせる嘘をつきました。
言い伝えに残る、「七日通り長縄手」です。
子供の夏休みの宿題で調べていましたが、ネットではどこにも書かれていなかったようです。
新宮町の発行する、「新宮町古今」に掲載されていましたのでご参考にされて下さい。
そういう事情だとすると、僧の気持ちも複雑だったんですね。
教えて頂いてありがとうございます。
「七日通り長縄手」という言葉も初めて伺いました。
機会があれば教えてくださいませ。
本の方もいつか読んでみたいとおもいます。(^-^)