2011年 02月 07日
人丸神社(2)かつては海のそばだったよ
人丸神社(2)
かつては海のそばだったよ
どうしても消えない謎がある。そんな心の中に残るこだわりを列挙してみると、
1・ここは古代には海へ突き出した岬ではなかったか。
2・景清の娘の名前が「人丸」という男の子のような名前だった理由について、「朝日(旭)が上る時、懐妊を覚え、女の子を出産しました。「旭」という字は「日」「丸」と書くことから、「人丸」と名付けました」と言っているのは何だかこじつけっぽい。きっと昔も、「娘がなんで人丸という名前なんだ」と問う人がいて、無理に作られた話に見える。
3・若くして死んだ娘を埋葬するには「寺」のほうがふさわしい。
4・人丸といえば柿本人丸(人麿)を普通は指す。
5.ここは古代の聖地の可能性はないか。
こんなものでした。これらの、どうでもいいこだわりを無視してもいいのですが、
るなさんはやっぱり調べ始めました。
1・ここは古代には海へ突き出した岬ではなかったか。
これは、HP「海辺の散歩」の管理人のYAMADA氏から提供していただいた
新聞の切り抜きのおかげで、すぐに解決しました。
海辺の社会科 新宮 二千年前は海底この切り抜きが人丸神社のまわりの地形の話です。
【隆起した海岸】玄界灘に面して磯崎鼻から弧を描く砂丘、その上に茂る松林は博多湾周辺の砂浜のなかでも、とりわけスケールが大きい。
ところがこの砂丘も、その背面の新宮の家並みも、2000年くらい前までは海の底だった。むかし磯崎鼻は島で、この島と陸地との間には博多湾へ通じる水道があったという。
それが陸続きになったのは、九州北岸一帯の隆起と砂の積み重なりのためだと考えられている。この辺の土地は4000年の間に約10メートルの高まったというのだから、隆起は著しい。
(前九大教授山崎光夫氏の話) 朝日新聞 昭和34年7月31日

前回出した写真です。やっぱり2000年前は、全部海の底?
なんとも壮大な海の景色が広がっていたんですね。
この人丸姫の時代は少し隆起していたのでしょうか。
この鳥居の前の道を左の方に向かって走ると、道は左にカーブして行きます。
その道が水道のなごりで、溝が今でも残っていて、海水が上がって来ることもあると聞きました。
現代人が古代の海路を想像するとき、宗像と博多の間は志賀島が
飛び出しているので、大変な遠回りをイメージするのですが、
古代にはここに安全な航路があったのが分かります。
この三苫水道(と仮に呼びます)の存在は、古代の交通を研究する人には
大切な情報だと思いました。
さあ、こうして第一の疑問は解決しました!
(つづく)
地図 人丸神社 三苫水道(左右の海をつないていた) 磯崎(かつては島)
※開化天皇を訳しました。系図だけしか書いてありませんでした。
でも、ルナ的には謎がまた解けたよ。
※真鍋大覚氏の『儺の国の星』『儺の国の星・拾遺』は、 聞くところよると、売り切れたそうです。
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