2011年 02月 14日
人丸古墳(1)王家の墓と呼ばれていた古墳は男女を上下さかさまに合葬していた?
人丸古墳(1)
ひとまるこふん
福岡県粕屋郡新宮町下府
王家の墓と呼ばれていた古墳は
男女を上下さかさまに合葬していた?
人丸神社のすぐそばに人丸古墳はあります。
町誌を見ると、王家の墓とも呼ばれていたとか。
しかも、男女が重なって埋葬されていたらしい。
これは、是非見てみたい。そう思って町立歴史資料館に行きました。
しかし、尋ねてみると開発の為に古墳は完全消滅していて、
跡を示す看板もないとか…。未盗掘で、江戸時代の本にも載ってる古墳なのに…。
そうか、それならブログ上で少しでも、古墳の再現をしてみよう。
と言う事で、今日は新宮町誌と町立歴史資料館の写真を使ってトライします。
まずは発掘時の写真から。中央の木の間にトレンチが入った円墳が見えます。
ここは立花山から延びた低い丘陵地で標高18m。
「筑前国続風土記」には「人丸墓―下府村の大道筋、日の下という所に
小高き大塚がある。村人は景清の娘・人丸の墓という」とあり、やはり、
当時にはすでに神社と古墳とゴッチャになっているようです。
しかし、地元では「王家の墓」と呼んでいた場所なので、
身分の高い人が葬られた記憶が伝わっていました。発掘は昭和63年(1988)です。
写真からは下の方からも古墳がよく見えていたのが分かります。
測量図です。墳丘の高さは0.8m程度ですから、ずいぶん低い印象です。大きさは約20m。
周囲に幅約70センチ、深さ3センチ、長さ5mほどの溝が残っていました。
蓋石は4枚あり、石棺全体を薄く粘土で覆っていました。その蓋石のすぐ上には半球形の穴のある滑石製の石が一個置かれていたそうです。
石棺です。組み合わせ式の箱式石棺で、長さ2.1m、幅0.6m、高さ0.35mの細長い長方形です。下には小石が敷き詰められてます。左の方には鉄剣が見えてます!人骨は消滅していました。
石棺について考えた
石棺の長さ が2.1mというのは、ぎりぎりの寸法ですよね。だって敷布団の長さが2mなんです。
石棺の幅についても、敷布団の幅は1mなので、石棺が60センチの幅しかないとすると、かなり狭くない?
そこで横にいる人のサイズを測ってみたら、腕の所は60センチを少し超えていた。
石棺の高さ が35センチというのも気になって、鼻から後頭部まで測ると25センチはあるし、胸の厚みも30センチはあったので、ぎりぎりの高さ。
この古墳は小柄な男性が寝ていて、肩は側面にきっちりとくっつき、頭と足元に少しゆとりがある程度だと分かりました。
蓋の上に石が置かれていたのは、「鎮石(しずめいしーおもし)だろうか」と、書いてあったのですが、ルナは今では、石に魂を留めている可能性がないかなとも思うようになりました。(出雲の赤い玉石は織幡神社でUPしましたよね…。)
この古墳には表面に鉄斧が二つも置かれていたそうです。(平原遺跡でも、周囲の溝あたりにいろんな鉄製品が奉納されていました。また、木棺には刀が横向きに置かれていました。)
未盗掘だと、こんな風習まで残っていて、参考になります。ただ、ここの鉄斧は発掘調査中に盗まれたそうです。
埋葬されたのは男女?
出土状況の図です。先ほども書いたように、人骨は出ていないので推理するしかありません。
石棺の寸法からは男性が一人埋葬されていても、ぎりぎりの大きさだと分かりましたが、ここにはさらに女性が埋葬されていた可能性があるというのです。その理由を考えて行きましょう。
まず注目されるのは鉄刀と鉄剣です。合わせて4本も置いてあるのですが、二本ずつ、上下を向いて埋納されています。
しかも、櫛も上下にあります。頭が上と下にある証拠です。
このことから、上下さかさまに二人が埋葬されていた可能性が出て来たのです。
次に性別を見て行くと、上の人には櫛や臼玉や琴柱(ことじ)の形の石飾り があり、肩口には鏡があります。手元には刀子を持たせています。女性だと思われます。
それに比べて下の方を見てみると、鉄の矢じり が耳元に沢山置いてあって、櫛もあります。男性ですね。弓の名手だったのでしょうか。
これらから男女がさかさまに重ねられて埋葬されていると推定されるのです。埋葬の時期が同時か、ずれていたのか気になる所です。
ここからは空想ですが、
石棺の高さが35センチしかないことから、男性が先に死んで、
埋葬の準備が整った頃に、にわかに女性も死んでしまったので、
一緒に永遠に過ごせるように埋葬しようとしたが、スペースがなくて、
女性をさかさまに埋葬したんじゃないかな…。と思いました。
どんな事情で亡くなったんでしょうか。それはあんまり考えたくないですネ。
(つづく)
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