2011年 02月 16日
新宮町の神功皇后伝説
新宮町の神功皇后伝説
福岡県粕屋郡新宮町
人丸古墳で紹介しきれなかったのですが、この新宮町には
旧石器から縄文や弥生、古墳時代の遺跡が沢山ありました。
海のすぐ近くなので砂鉄を採って鉄器を生産し、土器や石製品も製造していました。
弥生時代にはダムを作って、灌漑をしていました。
古墳時代になると武人たちを埋葬する時には、鏡や勾玉、金の耳環などとともに、
馬具や実用的な鉄の刀や剣を持たせました。
かれらの武器が青銅器でなく、鉄の真剣だった事から、また海のすぐ近くで、
港があることから、ここは軍事的に重要な所で、
船や馬に乗って戦う兵士たちがいた所ではないかと思いました。
倭国から百済や伽耶に行くのに、ここは一番便利な所で、
筑紫の兵士たちを調達出来る所なのです。
子供向けの町誌があり、その軍事的な背景が想像できる伝承が載っていました。
少し改変して紹介します。
「地名に残る神功皇后の足跡」う~ん。最後の飛山だけが、どこの話が分かりますね。
的野(まとの)・夜臼(ゆうす)・上府(かみのふ)・下府(しものふ)
4世紀後半、南九州の熊襲が反抗しました。このため仲哀天皇とその皇后の神功皇后が九州に来られて、橿日(かしひ)の宮(現在の福岡市香椎)を拠点に平定に乗り出されました。
また神功皇后は仲哀天皇が橿日の宮で急死された後も、ここを基地に三韓(朝鮮半島)に出兵したと言われています。この時、二人はわたしたちの町にもたびたび足を延ばされたそうで、二人にまつわる地名が数多く残っています。
まず行政区名となっている的野(まとの)です。的野の「的」は弓矢の標的であり、「野」は野原のことで、ここで兵士が弓矢の訓練をしたので的野とつけられたと言われています。
同区の古賀市との境にある、永浦から古森にかけての高台に、馬挿場(うまさしば)と呼ばれている所があります。神功皇后の兵士がここで馬術の訓練や弓のけいこをした所と伝えられています。この一帯は戦に備えての、一大訓練の場だったと想像されます。
行政区の名前にもなっている夜臼(ゆうす)の起源もこの時のことです。二人がここに陣を構えた時、ここのひとたちは軍用米を差し出すため、夜通し米をつきました。天皇があちらこちらから聞こえてくる「コットン、コットン」という音をたまたま耳にされ、そばの者に「あれはなんの音だ」とたずねられました。
そばの者は「あれは私たちのために徹夜で米をついている音です。」と答えました。それからこの地区を「夜まで臼をつく」という意味で「ようす」と呼ぶようになりました。そして、月日がたつうちに「ゆうす」になまったといわれています。
また鉾田(ほこた)は、二人が野外で陣営を張られた所だそうです。臨時の陣営なので、より厳重な警備が必要だったのでしょう。矛や槍を持った兵士が、二重三重に陣営を取り囲んでいたということから、鉾田とよばれるようになったといわれています。
上府の神木(じんぎ)という所は熊襲平定の作戦会議、つまり神議(神様の会議)がたびたび開かれた所といわれています。この神議がいつの間にか神木になったのでしょう。
福岡市との境に近い下府に、飛山(とびやま)という小高い所があります。ある日、天皇が夜臼の東の山に登られ、四方の景色を眺めておられた時のことです。西の方にぼつんと立った小高い山が目にとまりました。天皇がこの山だけが他の山とかけ離れているので、「飛山だ」と言われ、以来それがこの山の名になったそうです。
人丸神社と古墳があった所です。
(このあと、自分のブログを確認すると、なんと皇石神社(3)にも
全く同じ文を掲載してるのに気づいた…(;一_一)
忘れていたとは、ちとヤバイ。
同じ話ではないかと気づいた人も多いだろう…。
でも、この話の内容が昨年よりもかなり理解出来るようになったのだ…。
当時は屯倉の中に黄金を想像したが、今では武器庫だったのがよく分かる…。
私の中身は成長した。せっかく打ち込んだんだから、このまま出そう…。)
これを読むと、三韓征伐という言葉は知っていても、海を越えた戦いのために
どれだけの準備をしていたのか、何も想像出来ていなかった事に気づきました。
当然ながら、兵士たちは訓練をしなくてはなりません。
武器も沢山要ります。馬の訓練も必要だし。
新造船の訓練も必要です。船は48隻。宇佐で作らせました。
天皇と皇后も自ら夜臼での野営訓練に立ち会いました。
夜臼は弥生の環濠があり、登り窯などもあって、大変栄えていました。
米も豊富で兵糧があったので、ここを野営の陣にするのも納得です。
香椎宮もすぐ近くです。簡単に行き来できますね。

日本書紀にこんな一行がありましたよ。
仲哀9年秋9月10日に諸国に命じて、船舶を集めて兵士たちを訓練する。
これは、仲哀天皇が亡くなったあと、
神功皇后が軍の指揮をする事になった時の話です。
夫について来ただけなのに、戦いを指揮しなくてはならなくなった女性。
自分がそうだったら、とても悩むだろう。
しかし、彼女は軍の指揮を取る決意をした…。
天皇が亡くなっても隠し続けて、軍勢を訓練した場所は新宮町なんですね~。
たった一行ですが、具体的な場所が分かったので、がぜん面白くなりました。
日本の歴史研究の人たちは、きっと誰も知らないんだろうな…。
平行して日本書紀の神功皇后を訳し始めています。
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