2011年 02月 20日
鎮懐石八幡宮(1)出産が遅れるように願いを託した二つの石
鎮懐石八幡宮(1)
ちんかいせきはちまんぐう
福岡県糸島市二丈深江子負ヶ原(こぶがはら)
出産が遅れるように願いを託した二つの石
福岡県の東部の海岸沿いの神社を廻ると、神功皇后の伝承ばかりでした。
こうなったら、西の方の伝承も確認しよう。
という事で、前から気になっていた鎮懐石八幡宮を目指してやって来ました。
地図にも載ってるし、と思って202号線をやって来ると、
JRの向こうに鳥居が見えました。
ああ、ここは何度も通り掛かりに見かけながらずっと気になってた神社だ。
とてもゆかしい参道…。ここにこれたなんて…。と感激。
JRの踏切を渡ろうとすると、車は通れない!!
歩いてしか行けないようになってるけど、駐車場もない。どうなってるの?
ナビを拡大すると、道がありそうなので、西の方に迂回してみると、
だんだん道幅は狭くなり、農作業中のビニールハウスに突っ込みそうな勢い。
しかも、先の方は行き止まりかも。へたしたら、溝に落ちてしまう。
もしかしたら、このくねくねの細い坂道をバックで帰る?(汗)
とうとう車を降りて、道を確認しに行くと、あったあった、
駐車場もあるし、目指す神社がありました。
(このブログを見て行きたいと思った方、このルートを通るのは
お勧めしません。(;一_一)JRの踏切を歩いて渡りましょう。)

ここは海に近い高台にあります。さっきまでのどしゃぶりも止んで、
曇り空ですが、光を集めたように明るく開けた境内でした。
ああ、ここも桜がいっぱい。花芽を含んで、充実しきった冬の枝もいいですね。

拝殿に出ました。参拝して、右を見ると神社の由来に関する資料が
沢山貼られていました。それに、持ち帰り用の資料が置いてありました。
ありがたい…。資料館に行かなくていい。お礼を投入してっと。
この神社は古代史を調べる人は必ず押さえに来るんだろうな…。
そう。だって、日本書紀に書いてあるもんね。
まずは、拝殿にある由緒書きを見てみましょう。
祭神 神功皇后(息長足日女命)
応神天皇(八幡大神)
武内宿禰
おお、見事な組み合わせです。ずっと、この三人は一緒です。
母と子と重臣です。黒男神社では、武内宿禰がすべてをかけて、
この母子を守ったのが思い出されます。
では、この神社の「鎮懐石」って何?
由緒 昔神功皇后は応神天皇を懐胎しながらこの地を通って、新羅へ向かって兵を出された時に、卵形の美石2個を求めて肌身に抱き、鎮懐として出産の延期を祈られたのであった。願は叶って、帰国後、宇美にて応神天皇を御安産されたのである。
そこで皇后がかの経尺の璧石をこの丘の上に、お手ずから拝納されてより、世の人は鎮懐石と称してその奇魂を崇拝するようになった。
そうか、ここはいよいよ新羅への出兵の場所だったのですね。
でも、あれっ?出兵は志賀島からじゃなかったっけ?
そうか、当時は朝鮮半島に行く湊と言えば志賀島と松浦と二つあって、
そのどちらにも、伝承があるんですね~。困ったですね。
まあ、それはそれとして、西の方にはどんな伝承があるのか、
楽しみに見て行きましょう。
さて、神功皇后は夫が亡くなる寸前に、神託で懐胎を告げられています。
それから三輪町では戦をして、新宮町では訓練を見て、
古賀市では船団を待って、久山町や福津市など色んな所で祈願をして
忙しく過ごします。そうこうしている内に、産み月が近づきました。
そんなお腹で、戦闘に出かける?戦争中に船の上で出産する?
しかし軍備は整って、流れは止められない。
そんな彼女を助けてくれたのが、この二つの石だったのです。
その石に願を掛けて懐に収めていたお蔭で、出産が延びました。
当然ながら、この件がいろんな本で問題にされています。
(さすがに、石を懐に入れただけで出産は延期出来ない)
神社史によると、神功皇后はこの湊に戻って来てから、
みずからその石を奉納しています。
なるほど。これは現地に行かないと分からなかった話ですね。
(つづく)

獅子が睨む先には海が広がってます。
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九州沿岸は神功皇后の伝承だらけですね!
このブログも神功皇后日記の様相になってきました。1800年たっても、今だに噂されるのですから、当時の人にとって、彼女はすごいカリスマだったんでしょうね。


知識を学ばないのは、素の情報を受け取るためだと思います。
余計な知識が無い方が、都合がいいんですね。
それで、調べてくれる人とセットで行動するようになる訳です。
自分の人生は自分で決めることが出来ますが、宿命があればそのように進みます。
思いのままに生きていかれるよう、そっとサポートしてあげてくださいね。^^
