2011年 02月 19日
鎮懐石八幡宮(2)石の大きさの謎をルナもやっぱり考えた
鎮懐石八幡宮(2)
石の大きさの謎
ついついルナも…

それではこの神社に関わる日本書紀のシーンを読んでみましょう。
新羅へ出兵する時、ちょうど皇后は産む月にあたっていた。
皇后は石を取って腰に挟んで、祈って言った。
「戦が終わって戻って来た日に、ここで生まれたまえ。」
と。その石は今は伊都の県(あがた)の道のほとりにある。
とあるのが、まさしくこの鎮懐石八幡宮の場所です。
当時は道のほとりにあったと書いてあります。この部分だけでも、謎だらけです。
石のサイズです。腰に挟めるサイズですから、小さいはずです。
でも道のほとりにあるなら、認識出来る、ある程度の大きさがあるはずです。
古来、この石のサイズの矛盾の謎解きと妊娠期間の計算から
神功皇后にハマる人が出て来ているようです。
この石は今はどうなっているのでしょうか。
神社に置いてあった資料を読んで見ましょう。
鎮懐石物語 白く光り輝く二つの石 (糸島伝説集よりーその一部を)
新羅遠征も勝利の中に無事凱旋になると、めでたく胎中の天皇が御降誕になった。後の応神天皇である。皇后の御安堵と喜びは一方ではなかった。その後、皇后はこの神意志を祈願した地・子負ヶ原(こぶがはら)の丘上に納めて永く祀られたのである。
その後この宮の前を行き来する者は下馬したり、ひざまづいて拝んだと万葉集にも書き残されているが、その頃からこの神石を皇子産石(みこうみ)とも鎮懐石とも呼ぶようになった。
帰国してから、無事に出産したんですね。そして、例の石をこの丘の上に納めたんだ。
万葉集にはこの宮の前を行き来する人が参拝している様子が書いてあります。
なんと、この万葉歌人って、山上憶良ですって!
筑前の守として、ここまでやって来たんですね。
彼の詞書きによると、この時の石は大小二つあって、サイズは
大が長さ1尺2寸6分(約40㌢)、周囲1尺8寸6分(約60㌢)
小さい方は長さ一尺一寸(約36㌢)、周囲1尺8寸(約60㌢)
(一尺を33センチで計算してみました。)
う~。大きい。どうなってるの?話が伝わる内に、
こんなに大きな石を袖の中に挟みつけたという事になってる。
無理ですね…。ま、つづきを読みましょう。
この石は寛文年間(1661年)まで残っていたが、いつの間にか盗難にあってしまった。ところが、天和3年(1683年)の夏、六郎という里人が卵形の珍しい美麗な一個の石を拾って家に持ち帰っていると、ある日、一羽の鳩が飛び込んで来て、床の間に据えていたその石に止まったので不思議に思い、ある博識の古老に話した。
するとこれは子負ヶ原から失せていた鎮懐石の一つに違いないと教えられたので、六郎も近隣の人々も、瑞鳥が飛んで来て止まったのも道理だ、もったいないことだと、子負ヶ原丘上に納めたのであった。そして、貞享2年(1684年)に社殿を新築して、これを御神体にしたという。
現在、疑問を感じるのはこの石の大きさである。今の石は横7寸(約23センチ)高さ6寸(約20センチ)径5寸(約16センチ)と言。
われているが、古書では皆、長さ1尺2寸6分(約40センチ)、まわり1尺8寸6分(約60センチ)と記されていることである
貝原益軒は如何に長い年月を経たとて、大きな石が小さくなる事もあるまいが、神仏のことは常識を以て論じ難いと評論を避けている。
それにしても、このように大きな石を御腰に挿まれたとか、御裳の中にいれられたということは誰もが不審に思うであろうが、これも皇后に神力があったと考える外はない。
なるほどですねえ。
これはまた大変大きな石が盗まれたんですね。持ち上げればぎっくり腰間違いなし
ですが、後から奉納された小さな方でも、ラグビーボールぐらいの大きさ?
これを二つねえ…。妊婦が腰に挟んだ…。貝原益軒が評論を避けるのも無理ないな。

これは、境内にあった白い石です。無造作に置いてるので、
何だろうと思って取り敢えず撮影したのですが、
古書にある大きい石がこのくらいの大きさみたいですね。
う~ん。ますますミステリー。続きをもう少し読んでみましょう。
なお、社前に御船をつながれたという「とも綱石」が
玉垣を巡らして残されているのも、珍しい。

境内にこんな石があって、これもまた何だろうと思って撮影しました。
ほかには「とも綱石」らしきものには気づかなかったです。
この神社そのものが移動しているので、よく分からないです。
(地元の方で、これが何か分かる方、教えてください。)
さて、この「玉垣を巡らす」という言葉で思いだしたのが、
このような丸い石は堤防を作るのに一番いい素材だという事です。
古代には、せっせと海の底に潜っては積み上げて護岸した人たちがいました。
そんな作業中に海の底で白くて綺麗な丸石を見つけると、
神社にでも奉納したくなりますよね。
この浜にいた海人族たちも白い卵型の石を見つけると、神功皇后の伝承を思い出し、
ゆかりの神社に奉納したのではないかなと想像しました。
ここから近い唐津市の鏡山にも、白い丸石が沢山奉納されていました。
そこにも神功皇后伝説があります。
この石のサイズの問題について、ルナはこう想像しました。
「昔の神女は純白な玉石を紅袴の腰紐の中に入れていた。」そうです。
神功皇后も豊浦宮で綺麗な石を見つけて大事に拾ったりしています。
この糸島でも彼女が見つけた石は小さいものだったんではないでしょうか。
そして、出産が遅れる祈願の神事を大々的にしました。
もちろん、兵士たちへのパフォーマンスもこめてです。
彼女はその白い小石をみんなが見守る中で身につけた。
この出来事は人々に強烈な印象として残り、伝えられる内に石は巨大化していった。
それからは白い卵型の石が見つかると、人々は神社に奉納するようになった。
その内で特に大きな二つの石が道端に置かれて、道祖神のように崇敬の対象になった。
それを山上憶良が見聞して記録したのが、そのまま鎮懐石と呼ばれるようになった。
盗まれた最初の石は、きっと懐に入れられるほどの小さな石だったと思われます。
白い石は、次回紹介する唐津市の鏡山にも沢山たくさん奉納されていました。
この糸島から唐津にかけての海人族たちは白い石を見つけると、
「神様に奉納しよう。」という、ならわしがあったのかも知れません。
白い石については、もっと沢山の伝承を見通してみたいと思いました。

境内からは海が見渡せます。左の方は今から行く唐津方面の海が見えています。

神社はこの森の向こうにあります。
写真の左が海です。右には大きな道路が出来ています。

昔の写真も資料にありました。
鎮懐石神社はかつては石垣を巡らした岡の上にあったそうです。
昭和11年(1936年)に現在地に遷りました。
風情がありますね。
地図 鎮懐石神社
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私の新説?では神功皇后は新羅から帰国してから出産予定だったのでは?それを、仲哀天皇の子供だと思わせたいため、こんな芝居をうったのではないでしょうか。仲哀天皇が亡くなる日から数えて十月十日に応神が生まれたってのはいくらなんでも変ですよね!
という事で、父親探しも古来からなされていて、言わずもがなです。

日本古代史のブラックボックスといわれる長崎からです
最近、日本人はどこから来たの?と気になり、色々サーフィンして
こちらのHPに漂着しました!(神社全くの素人)
素晴しい情報量!大感動です!
さて、本題ですが
皇后の鎮懐玉は長崎の石神で採れた赤い燧石(火打石)と説明してる処があるのですが?一体、白なのか赤なのか?と知りたくなり
(妄想するにも色は大事^^;)コメントしてみました。
キリシタン迫害や原爆の話題ですっかり埋もれてますが
長崎浦上にも神功皇后関連の神社があります。
何故こんな所に!と不思議でしたが
何やら関係ありそうで気になっています。
稚櫻神社http://nagasaki-r.seesaa.net/category/6698198-3.html
古代を知るなら当時の地形からという事で調べると
大村湾に注ぐ時津~浜口町(当時砂浜)の古い経路があり、
喜々津~船越町(舟をかついで越した)~諫早本明川と同様
大陸への海路のようですし(つまり長崎に皇后来てたかも?)
神功皇后や彼女が憧れたに違いない
素敵な「出来るおぢさま」景行天皇にも興味が湧いています。
ぜひ大村湾周辺の土蜘蛛伝説も
逍遥して謎を解いて下さいませ。
ブラックボックスなんですか?いえいえ、きっと古代史の宝庫でしょう。
最後に行ったのは平戸かな。三回続けて行きました。
生月島とか、スコットランドの風景(古代ケルト)とそっくりで感激しました。
神功皇后は教えてくださった船越を通ったのではないかと、仮説を立てています。
福岡の大川市の風浪宮や久留米市の大善寺玉垂宮に書いていますが、
新羅から帰る途中に安曇磯良船長の大型船が到着しています。
これは長崎ルートしか考えられない。
航路のイラストも書いているので、検証してみてください、。
だから、もし長崎にも神功皇后伝承が残されているとしたら、知りたいです。
土蜘蛛もいるんですか?ますます楽しみです。 (^-^)

ネット上を主にさらいて(逍遥して)いる私で、
人の褌借りてます(^^;)が、
長崎市での神功皇后伝説のっている処をいくつか見つけました。
飯香の浦http://kam-r.sub.jp/saruru/ika.html
女神http://www.at-nagasaki.jp/nagazine/hakken0601/index1.html
女神の狐http://tabinaga.jp/column/024.php
裳着神社http://www.ric.hi-ho.ne.jp/kandoro/burasam/0001/0001mogi.html
大村湾より外海側に怪しい名前がいっぱい
島原半島の付け根の「唐比」付近で突然
伝説はなくなります。ど~してだろ??
(全部、他人の褌でしたっ)
大村湾周辺の山で、虚空蔵の名前が多いとか
菩薩関連のキーワードだらけ
(かくれキリシタン(母子像)の隠れ蓑に使ったのか?)
誰かを「迎える」という地名も多い!誰?
それに関連して
只今、深まる「彼杵」の謎に夢中☆。
速来津姫は早岐の土蜘蛛
浮穴沫姫は西海橋の渦潮の土蜘蛛◎
七つ釜鍾乳洞もあやし~
角力灘:すもうって神事だし~
諫早の「宇」の國って?
と素人ながら謎解きを・・・
でも、
知識豊富なルナ様にすっきりサクっと解説して頂きたいなと
思うのでした。
http://www.ric.hi-ho.ne.jp/kandoro/burasam/0005/0005isahaya02.html

ブログの中を探してくれたんですね。
雲仙岳は、かつてはかなり高い山だったようですよ。
アンドロメダが高来郡あたりの事を指している訳がよく分からなかったのですが、
海進期にもっと陸が狭かった頃の島々の集まりの形がラセンを描いたようなので、アンドロメダになぞらえたらしいです。
そうやって観察すると、確かにそう見えますね。 (^-^)v