2011年 04月 15日
味水御井神社/今なお水が湧き出る聖地・天武7年の筑紫大地震の断層あと
味水御井神社
うましみず・みいじんじゃ
福岡県久留米市朝妻町
今なお水が湧き出る聖地
天武7年の筑紫大地震の断層が残っていた
交通量の多い久留米市322号線の千本杉~朝妻に、
木立ち一つ隔てて、全く別世界が昔のままに残っていました。
ずっと気になっていたけど、入口が分からなかった…。
思いがけず訪れた所は泉を祀った神社でした。

境内には、水を利用するプール状の構造がいくつもあって、
今も清らかな水が湧き出ていました。

奥の方にクロガネモチの巨木があって、その横に祠があります。
昔の写真を見ると、手前の石段の所に鳥居が建っていたようです。
なんだか不思議な空間に思えたのは、鳥居が無かったからですね。

最奥に祠が祭られていました。
説明板があったので書き写します。
味水御井神社と朝妻の清水
(うましみずみいじんじゃ)(あさづま)
味水御井神社は天慶7年(944)の筑後国神名帳にも登場する由緒ある古社です。
「うましみず」の名が示すとおり、境内には現在でも清冽な水がこんこんと湧き出し、古来より崇敬を集めるとともに、「朝妻の清水」として多くの人々の生活に潤いと恵みを与えてきました。
また、近年は筑後一宮である高良大社で行われる川渡祭(へこかき祭り)の際の禊(みそぎ)の泉としても知られます。
味水御井神社の歴史的意義は深く、7世紀後半から12世紀後半にかけて高良山北麓一帯に営まれた筑後国府(筑後国を治める中心的な役所)の発掘調査においても、国府の長官の居館である国司館から当社に向けて延びる道路の跡や、当時の官人たちが朝妻の清水から導水し「曲水の宴」を楽しんだと見られる玉石式の人工的な小川などが確認されています。
(略)
この泉の近くには、かつては国府があり、
ここから小川が導水されて「曲水の宴」をしていたそうです。
多くの宮人たちが、着飾って風流な遊びをしていたのですね。
「へこかき祭り」といえば、赤いふんどし姿で高良山に参拝するお祭りですが、
現在もこの泉でミソギ行をしているそうです。

水が透き通っています。
この神社の由緒について調べたら、御井町誌に御祭神と由来が書いてありました。
朝妻七社―仲哀天皇・神功皇后・国長明神・古母・妙見・乙宮・西宮
昔は七社ありましたが、どういうことか今は一社もありません。ただしここの清水は高良三泉の内の一つだと言い伝えています。
という江戸時代の文がありました。(現代語訳しました)今では水の神様が祀ってあるようです。
そして、続きを読むと、ここにも、神功皇后が…。
その昔、神功皇后が新羅を攻める時、産気づかれたが帰って来るまでは産むまいと、腹にしっかり帯をまいて朝鮮へ渡り、帰ってくるや誉田別皇子(ほんだわけのみこ)を筑紫の国で生む。
高良山に皇子誕生のお礼参拝の途上、朝妻のあたりで水を所望された。お供の者が矢尻で葦の茂みを突くと清水がこんこんと湧き出した。それが今の朝妻の清水であるといわれている。
「味清水神社」の名にある「うま」の意味も神功皇后が、「これはうまい。」といわれたことからついたものだと聞く。
神功皇后は、ここでは出産の後の話になっていますね。
鎮懐石八幡宮の話を思い出します。
その時には石を身につけましたが、ここでは腹帯の話に変化しています。
八月七日は「しっちゃら権現」の「夜渡(よど)の祭り」である。このよどの賑わいは大変なものであった。
「夜渡の祭り」がここで催されていたとは!
「夜渡七十」ということわざがあって、70年に一度の大津波が有明海の中を縦横に往来する事を教えていました。ヨドとは70という数字の古い読み方で、「高波」を暗示しています。この地にもその危険を伝えていた名残のお祭りです。
ここの「朝妻」という地名も「浅つ間」が語源で、「干潟」あるいは、「船が停泊できる溜りの港」という意味です。
昔はこの近くまで船が通い、清らかな泉の水を求めて人々が集まり、
役所があって、大変栄えた土地だったのが伺えます。
この神社はすぐ横が久大線の久留米大学前駅です。
そこに向かう急斜面が断層の跡だそうです。

この写真は、断層の中腹あたりで撮りました。
前回、高良山神籠石が途中で消失した原因が
天武7年(678)の筑紫の大地震のためだという事を知りましたが、
ここが水縄活断層系追分断層の現場です。
日本書紀の記事を読んでみましょう。
天武天皇7年。12月。筑紫の国に大地震が起こった。大地が広さ約4m、長さ約6キロほどに渡って裂けた。人民の家が村ごとに倒壊した。この時、ある人の家は岡の上にあったが、地震が起こった夜に岡が崩れて移動した。しかし、家は全く壊れず、家の人は岡が崩れたのにも気づかなかった。夜が明けてから、分かって大変驚いた。
この時の地震の範囲はこの程度でなく、福岡の南北、そして東西がかなりの距離に分かって上下に分かれた断層が出来ています。その高低差は数mです。
この神社の近くの国府が長年発掘されていますが、日本書紀の記述を裏付けるように、
国府跡からは、すり鉢状窪地、逆断層、噴砂、液状化、地割れなどが発見されています。
断層からは土師器が発掘され、また家がそっくりそのまま出て来ています。
続きを読むと、その後、都でも次々に天災が起こります。
天武8年6月1日に氷が降って来た。大きさは桃の実ほどあった。
6月23日には雨乞いをした。
7月6日にも雨乞いをした。
10月11日に地震があった。
9年6月8日に灰が降った。
6月14日。雷電がひどかった。
8月5日。大雨。洪水。大風。
9月23日。地震。
このあとも地震は何度も起こっています。
降灰については、大正時代の桜島の噴火の降灰が東北まで届いたと言う記録がある事から、
この日本書紀の記録も、どこかの火山の噴火による降灰かも知れません。
こうして古い記録を見ると、天災との戦いの日々だったのが分かります。
それでも、人々は乗り越えて営々と文化を築いています。
今回の東日本地震も、必ず日本人は乗り越えて行きます。
一日も早い復興を祈ってやみません。
地図 味水御井神社
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大和の大地震もかなり揺れたようですね。牽牛子塚古墳の時に知りました。地震の直前に墓泥棒が入って、一部を壊したために、沢山の古墳が壊れたように書いてありました。
歴史も、気象を調べながら見て行く必要があるんですね。
貴重な情報を伝える神社が復元不可能になってしまう前に、なんとかしたいです。
御存じのとおり、高良下宮社は一揺れ、もしくは台風で崩壊はまちがいないです。
個人で出来ることとして、まずは写真を撮っていただいて、なんとか、後世に残していただけたらと思います。
そして、教育委員会にも、久留米市が栄えるようになった、根幹の地として認識していただいて、手を打つ時だと思いました。(年内になんとかしないとと思います。)
この味水御井神社も、空襲か何かで破壊されたまま、放置されているので、仲哀天皇と神功皇后の滞在所として、見直す時ではないかと思います。
国府は明らかにこの泉の存在があったからこその役所です。
石橋文化センターがあまりにも美しかったので、そのエネルギーを文化遺産に向けていただけたらと切に思いました。そして、吉野ヶ里に対応する古代文化エリアとして発信していただけたらと思います。









