2011年 04月 26日
弾琴台土城/韓国で出土していた40枚の鉄鋌
だんきんだいどじょう
忠清北道忠州市
韓国で出土していた40枚の鉄鋌
神功皇后の記事は日本書紀全体の五分の一近くを占める
とても長い記事ですが、それもあと一息です。
「神功皇后(12)」に百済の肖古王が鉄の延べ板40枚を
日本に献上するシーンが出て来ます。
40枚って中途半端な数字ですが、氏族によって聖数が違うので、
とても興味を持っていました。
そして韓国で実際に鉄鋌(延べ板)が40枚出土して、
それを調査しにいった記事が載っていました。
今回はその新聞の切り抜きを紹介します。

韓国・弾琴台土城
鉄鋌40枚が導く古墳時代の鉄
去る2月25日、福岡大学考古学研究室の韓国研修旅行で、念願の弾琴台土城(だんきんだいどじょう・忠清北道忠州市)を訪れた。
ここは、加耶琴(かやこと)の名手で、加耶から新羅に亡命して国原(こくげん)に安置された于勒(ウロク)が、新羅の真興王12(551)年に召し出されて王の前で演奏したという伝承が残る場所である。
于勒がその時に演奏した12曲の曲名から大加耶連盟体の存在を推定する研究もあって興味深いが、見たかったのは立地と城内の貯水施設の場所、そして、場外の漆琴洞(しっきんどう)製鉄遺跡である。
話は、2008年2月23日に福岡大学で開催した、東アジア考古学会と韓国の中原文化財研究院との第2回研究交流会にさかのぼる。その席上で弾琴台土城の発掘成果が披露され、百済前期でも4世紀の鉄鋌が40枚出たと報告されたが、すぐには理解できなかった。
示された出土状態の図を見ると、それまで三国時代や日本の古墳時代の鉄素材として知られた厚さ0.2センチ前後で両端がひろがる薄い鉄鋌とは異なって、分厚く直線的だったから、「棒状鉄斧(てっぷ)ではないのですか」と質問したくらいである。
「一度来なさい」と中原文化財研究院の車勇杰(チャヨンゴル)院長から誘われて実際に見たのは、報告書が刊行された直後の2009年11月8日である。
ビックリした。細長方形で刃は付いておらず、確かに鉄素材で鉄鋌と呼ぶほかない。しかし、それまでの諸例に比べてあまりに分厚いから、弾琴台型としよう。
40枚の平均値は、長さ30・7㎝、幅4・13㌢、厚さ1・45㌢、重さ1.31キログラムである。表面には叩いて鍛えた痕跡があり、上面両側縁には隆起線が走る。
本来は2倍の長さを半分に折ったとみられる。これらは、貯水施設の下段部分から5枚一くくりがそれぞれ3列、2列、3列にまとめられ、一つの塊となって出た。
これまで鉄鋌は10枚で一単位だったが、5枚一単位もあったことになる。鉄鋌の多くは表面に木質が残るから、板をあてたか木箱に入れたとみられる。
一緒に出た土器は4世紀が多く5世紀初頭までである。また、弾琴台土城外の南東麓には4世紀後半の漆琴洞製鉄遺跡があり、ここで生産されたとの意見もある。
こうした時期と40枚という数字から想起されるのは、『日本書紀』の「神功皇后紀」46(366?)年条で、百済の肖古王が斯摩宿禰(しまのすくね)の従者である爾波移(にはや)に「鉄鋌40枚を与えた」とある。
また、同52(372?)年9月丙午の条には、百済王が千熊長彦に会って七支刀を与え、谷那(こくな)鉄山での鉄生産を約束したとの記事もある。
弾琴台土城の鉄鋌は、4世紀の百済の鉄生産、ひいては日本の古墳時代の鉄素材問題を考える上できわめて重要な資料であり、日本とも関わる谷那鉄山の位置については諸説あるから、どれほど現地見学を切望していたかお分かりいただけよう。
弾琴台土城は、南漢江が最大支流の達川と合流して東北から西北に曲流する地点の西南側、当時の島の頂上にある。
規模は小さいが外城の中に内城を設けた可能性が高く、貯水施設は内城の中央付近にあった。部分的な調査だったが、城の中からは冶鉄(やてつ)関連の鉄滓なども出た。
南漢江側の絶壁と土城で重要施設を堅固に守とともに、原料の搬入や製品の搬出にも至便な立地であり、直下には製鉄施設を配することも今回の踏査でよく理解できたし、国立清州博物館で再会した40枚の集合展示も圧巻であった。
日本の古墳時代鉄器・鉄素材研究は、これらを踏まえて展開せねばならないのである。
考古学トピックス 武末純一=福岡大学教授
(西日本新聞 2011年3月24日 朝刊より)

弾琴台土城がある忠清北道忠州市って、かつての馬韓(ばかん)だったそうです。
加耶琴が弾かれた時は新羅の国だったんですね。そうか、琴が弾かれた事から「弾琴台」というんだ。いい風情の名前ですね。
青い①は国立清州博物館のある所。忠清北道です。弾琴台土城もきっとこの近くにあるのでしょう。

これは5世紀の三国時代の図です。
高句麗や百済や新羅の境にあるから、大変な土地だというのがよく分かります。新聞記事を読むと、川が合流する地点の島の上に城を作っています。絶壁と土城。城を建てるのに堅固な守りが伺えます。
魏志倭人伝によると倭人は鉄を求めて狂奔したとか。
日本には砂鉄が無尽蔵にあるのですが、製鉄の途中で一酸化炭素中毒で亡くなるような危険な作業だったそうです。それに技術によって出来上がりの質が全く違ってた。それで、良質の鉄を求めたのですね。
韓国の事はなかなか分からないけど、日本書紀を訳して行く上で、
この先ずっと出てくるので、少しずつ場所を覚えて行きたいと思っています。
今回の忠清北道って韓国の中央あたりなんだ…。
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