2011年 04月 28日
埴生神社/桜の名所は古代の島?ここもまた神功皇后が…
埴生神社
はぶじんじゃ
福岡県中間市埴生
桜の名所は古代の島?
ここもまた神功皇后が…
今年の桜は何処に行こうと考えていたら、埴生公園が桜の名所だと情報が。
「え?埴生?はぶ?」
少し前に「南十字星の和名」をUPしたばかりでした。
そう、「埴生」って「船の帆(羽布)」の事で、
南十字星にも付けられた和名と知ったばかり。
どんな地形なんだろ。よし今年はそこに行こう。
ナビを頼りに出かけました。
広い駐車場は既に満杯。辛うじて一台分をゲット。
沢山の市民が公園へと歩いて行きます。

池にかかった赤い欄干の太鼓橋!なんだか龍宮城のよう。
桜は散りかけていて残念。
他の所はまだ5分咲きなのに、ここの桜は早いんだ。

正面に廻ると、おお、鳥居だ!公園の中に神社があるんだ。

赤い橋を渡ると池の向こう岸は桜並木で満開。
ボートも楽しそう。

まずは神社へといくつもの石段を上りました。

頂上に着くと本殿がありました。そして、由緒書きを見てびっくり。
なんで~。ここにも神功皇后が来てる!
埴生神社(埴生八幡宮)
御祭神 仲哀天皇 神功皇后 応神天皇
相殿 天照皇御神 15社神社(昭和27年10月合祀)
当社は昔、仲哀天皇、神功皇后と御船にて、この埴生の地にお着きになられ、しばらく熊襲征伐の行宮の旧跡にて、航海の安全を祈念され、船魂を祀られた由緒によりて「開運(武運)家内安全 縁結び 安産 交通安全」の守護神として諸大名を始め人々の崇敬を厚く受けてきた。
社説に曰く「当社は埴生郷の大社なり。埴生郷は西北数ヶ村を包含せる大村である。」
また源順の古書和名類聚抄に「岡の六郷の第一なり」と記されている。
当時としては社殿も大社造りであったが、戦国時代、度重なる大友軍の兵火により焼失。その後、元亀2年(1571年)花尾城主「麻生隆實によって現在の地に社殿が再建された。また昭和27年に15社神社を合祀し、埴生八幡宮を埴生神社に社名変更。氏子を始め近隣市郡の人々の崇敬厚く今日に至る。
例祭日 10月13日 北九州市、遠賀郡、中間市の神職による「筑前御殿神楽」奉納
そうか。そうなんだ。
岡湊神社から遠賀川を遡って、仲哀天皇の一行はこの埴生神社にやって来たんだ。
ここは水軍の本拠地で、迎えられた一行はその神々を祭り、
これから戦う熊襲への戦術を練り、軍備の状況を確認して、
「香椎宮へ移動しよう」という話し合いなんかがなされたんだ。
そんな行宮(あんぐう)の旧跡に思いがけずやって来た。

参拝を済ませて右側の方にまわると、道が続いていました。
木々の生い茂った杜の中の小道は裏参道でした。
その先は明るい陽光。ああ、ここもまた弥生の風景のようだ…。
深くえぐれた右側の斜面の下からは、人々のさざめく声が聞こえてくる。
道は大きなカーブを描きながら右に曲がっていく。
行き止まり?
少し不安になると、向こうからウォーキングの人が。
「この先、道はありますか?」
「ええ、このまま進めば下に続きますよ。」
安心して道を辿ると見晴らしがきいて来ました。

落下防止のフェンスから覗きこむと花の下でお弁当を広げる人々もいる。
わあ、ここの桜は今が一番!
向こうの山は例の六ケ岳じゃない?すごく見晴らしがいい。
すると、眼下に広がる平野はかつて海だった?
え?ここは何?島だったの?かつては海に浮かぶ島?
さらに道を辿ると、さらに展望所がありました。
ドキドキ。ここは昔の地形が残ってる…。
仲哀天皇と神功皇后が見た景色を見ている。

それから道なりに降りて来ると入り江のようになっていました。
馬蹄形に歩いてきた事になります。
写真の正面の森の中に神社への石段があった訳です。
ここは入り江?船がここに停泊した?
「埴生=垣生」とは船の帆。この地の水軍は南十字星を知っていた?
自分たちの守護の星の名前を地名につけた?
ここが島ではないかという思いは、
帰りにふと寄った古月横穴の案内板であっさりと確認出来ました。

この古代地図を見ると、遠賀川は川というよりも大きな湾ですね。
この島を後にすると仲哀天皇の一行は虫生津から上陸します。
左の赤い丸が上陸地点です。
伝承の数々は矛盾なく天皇の一行の足跡を伝えていました。
この龍宮のように美しい島。埴生の島。そこの頂点に建つ埴生神社。
思いがけない感動が広がりました。
そして、この島にはもう一つ、古代の人々の営みが残されていました。
それは「垣生羅漢百穴」と呼ばれる横穴墓群でした。
どんな人たちがここにいたのでしょうか。
垣生羅漢百穴へつづく
http://lunabura.exblog.jp/16261371/
地図 埴生神社
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