2011年 05月 11日
裂田神社(2)「おひたき」の語源はギリシア語の「キタヒ」?
裂田神社(2)
「おひたき」の語源はギリシア語の「キタヒ」?
1800年前の行事が続いていた

(神社から裂田溝(さくたのうなで)を見る。)
前回の案内板の記事に
例祭は11月28日で、針口の人たちが集まって火たきごもりをする。
という文があって、驚きました。
これって、地元の真鍋氏の本に書いてある伝統行事じゃない?
まさか「お火焚き」が残っているとは!
真鍋家って那珂川町の物部氏だったと言うのですが、
その物部氏の末裔が書いた本が『儺の国の星』と『儺の国の星・拾遺』。
あまりの難しさに地元では忘れられているようなのですが、
私はこのお蔭でずいぶんと謎解きが出来ました。
今日はこの本を書かれた現地で読んでいきたいと思います。
那珂川では仲哀天皇の頃からお火焚きの催事が始まり、今も部落ごとに守られている。
氏族は自分たちの部落の新年の暦を神に供えて、古い暦を焼き捨てた。これが「お火焚き」で、その語源はギリシア語の「キタヒ」で「書物」の意味である。
陰暦12月15日の夜を「お火待ち」として、部落の一族が一つ家に集い、夜を徹して酒宴をした。この夜には「お火待ち星」(オリオン座のペテルギウス)が夜空に昇った。この星を別名、神直毘星(カムナビ星)とも呼んでいる。

オリオンは冬の星座。冷たい冬風の中に堂々とその姿を表します。
オリオンの三ツ星は船乗りにとっては道しるべとなる大切な星で、住吉様と呼ばれました。
そのオリオン座の一番高い所にある赤い星がペテルギウスです。
農業をする者にとっては、収穫が一段落して、
土木工事や、農機具を整える季節が来た事を教えてくれる星でした。
「神ナビ」とは暦を作る為に月日を正しく並べる行為をさします。
この星が出る頃は、出来上がったばかりの翌年の暦を祝う時でもありました。
その暦を作ったのが物部氏です。
暦を作るのに必須事項は「満月とついたち(朔月)」と「月食、日食」の完全な予測だった。木の幹を大小に小さく切って、1年の月日を並べ衆議一決するまで立て替え、並べ直して納得のいくまで日取りを組んだ。暦が出来上ると氏族一同に触れて廻り、年毎の資料は神殿に奉納して子々孫々に伝えた。
満月は夜午後8時に昇り、朔月は午前4時に沈む。当時、二つの家系があって、一日の始まりを午後8時とする家系と、午前4時にする家系があった。この為に生じるずれは無理に合わせず、暦の日付を空欄にしておいて、それぞれの家系で解釈できるようにしていた。(神社や寺の銘で日付が空欄になっているのはこれが原因)
私たちは当たり前のようにカレンダーを手にしますが、旧暦のカレンダー作りは今でも計算と予測が大変で、閏月(うるうづき)の入れ方がとくに難しいそうです。
しかし季節がよく予測できるために、現代でも農業や漁業関係者はもちろん、洋服の製造や仕入れの業者など、季節ものに関わる人の大切な情報源になっています。
暦の編纂を行ったのは那珂川町では真鍋勝次が最後で、勝次は陰暦11月になると沐浴潔斎して暦の計算に取り掛かかった。その遺言は
「明治43年4月19・679日にハレー彗星は近日点を通過する」という内容だった。
明治42年に亡くなったが、この遺言は的中した。
ハレー彗星は、西洋で発見されるよりずっと前に、日本で知られていたそうです。
その予測に成功させる事は、和暦のレベルの高さを証明する事になるので、勝次氏は渾身の力を込めて予測されたのでしょう。
長距離の測量には球面測量の計算が必要だそうですが、そんな計算法も古代から伝わっていました。
古代祭祀線を理解するには、こんな事も計算できないといけないので、
るなさんはお手上げです。くるま座さん、頑張ってくださいね。
と言う事で、「火たきごもり」という行事は「古い暦を焼く」ことから始まったのが分かりました。この行事が1800年も続いたとは素晴らしいですね!

(裂田溝から裂田神社を見る。)
暦については、後の世の闘争の原因にもなって行きました。
曽我氏と平群氏がいて、早良郡脇山に住んでいた。平群氏は一年の元旦を望旦夏至に固執し、曽我氏は朔旦冬至に改革した。
曽我も平群も「月」の意味で、「曽我」は月の東洋的異称。「平群」は月の西洋的異称だった。これが暦法の採否を巡って中大兄皇子の激烈な論争と対決の背景となった。
ここに出てくる早良郡脇山とは福岡市の西の方にあります。
那珂川町からは西北の方になります。
朝鮮半島で国の興亡があるたびに、大勢の人たちが逃げて来て、それぞれに集落を作っていました。
亡命者同士、緩やかな和平関係が結ばれていたと思われますが、
水利権の争いや、どの氏族の暦を採用するかなど、将来の氏族闘争の火種が生まれました。

これは「和名抄」に書かれていた地名を現代の地図に落としてみたものです。
平群氏や曽我氏が福岡に居たのは地元でもあまり知られていません。
竹内宿禰が近畿地方に渡来人たちを連れて行って開拓した話になっているそうですが、
そうすると、このエリアに集結していた渡来人たちが、竹内宿禰や神功皇后が
東征した時に、一緒に大和地方に移住したのではないかと考えるようになりました。
彼らが土木技術に長けていた名残がこの裂田溝かもしれません。
ちなみに、実際に工事したのは国栖(こず・くず)と呼ばれる部族です。
ギリシア語で「月」を「フェンガリ」と言い、「ヘグリ」と変わったと思われる。
近東系の出であって、月氏(ササン)の子孫であったと思われる。
早良(さわら)には平群氏が百済人をここに租界せしめた。
考古学的にも、各地の地域の土器が一か所で発見されたり、
朝鮮式の古墳があったりするようなので、
少しずつ、そんな資料に当たって行きたいなと思っています。
(裂田溝と安徳台につづく)
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船乗りにとっては道しるべとなる星なのですね。
「和名抄」に書かれていた地名を現代の地図に落としたものは力作ですね!平群氏や曽我氏が福岡に居たのですね。
これまで、近畿に注目ばかりして、地元の歴史に不案内だったと、痛切に感じています。だから、毎回発見の連続で、「るなの知らなかったァブログ」状態です。
近畿地方の情報もじゅんじゅんさんのレポートが頼りです。当麻寺の聖徳太子の弟の件も、福岡に来た二人とは別人なのかななんて、新たな興味が生まれました。
知れば知るほど福岡と近畿は縁が深いのですね。
るなさんのコメントで「当麻寺の聖徳太子の弟の件も、福岡に来た二人とは別人なのかななんて、新たな興味が生まれました。」とありますがこれはどういう意味でしょうか?福岡に来た二人って?
602年に新羅に滅ぼされた任那を取り返すために、聖徳太子の弟の久米皇子が福岡にやって来て、糸島で亡くなっています。これはお墓も残っています。
603年には聖徳太子はもう一人の弟・当麻皇子を派遣してます!
これですね!当麻皇子が来てたんです!
でも、妻が死去したので、引き返していますよ。
これで新羅攻撃は沙汰やみになったようです。
(これって、韓国ドラマの善徳女王の時代じゃないですか!?)









