2011年 05月 17日
伏見神社(3)「伏見」の語源は「星の観察」・シリウスは地震津波を教える星だった
伏見神社(3)
「伏見」の語源は「星の観察」
シリウスは地震津波を教える星だった
境内にいると「道路の向こうに御神木がある!」と誰かの声。
見ると、巨木にしめ縄がはってありました。
参道を横切って車道が通ってるんだ…。
こんもりとした茂みに入ると昔からの参道が残っていました!
急な石段を降りるとその先は川。昔は船で乗り付けていたのでしょうか。
振り返ると車道の向こうに一の鳥居が見えていました。
取水口
これは伏見神社から裂田神社までの裂田溝を青で書き込んだ写真です。
この写真では伏見神社は左下にあります。
その神社の前に裂田溝の取水口はありました。
裂田溝は下の方から上の方に流れています。
「分かった。」と、地形を読んでいた奈東さんが教えてくれました。
「田畑を潤すには、那珂川が少し下流にあるので使えない。
だから上流から水を引いて用水路を作ったんだ。
しかも昔の那珂川は満潮時には潮水が上がって来るので、
真水が採れる上流の方に取水口を取っている。」
なるほど。干潟だった平地が陸地化しても、水がないと米は作れない。
目の前に川があっても引けなかったので、大工事をしたんだ。
傾斜を利用して、裂田神社の向こうまで流れるようにしてる。
1800年も使える水路。昔の人の地形を読む力はすごい。
そして人々は取水口を神聖な場所として祀ったんだ。
真鍋大覚氏によると、伏見神社の神殿の方位から計算して、
発祥は神功皇后46~69(246~269)年の間の造営と推定しています。
教育委員会の資料によると、神功皇后が三韓から戻って来て、
感謝のために伏見神社を作った伝承があるとも書いてあります。
ナマズ
取水口のあたりには名前が付いていました。由来書を現代語に書きなおすと、
鯰渕(なまずふち)
神社の前に流れる那珂川の「一の堰」より上流、伏見の渕、鐙(あぶみ)の渕、風拝(かざはい)の渕を総称して「鯰渕」と言い、「鞍掛鯰」の居るところ。
神功皇后の三韓征伐の時、背振山に登られ、灘の川を渡られた時、馬の鞍に魚が飛び上がり、皇后が「なまづめ」たいと言われ、その魚をナマズと名付けた。皇后が三韓征伐の船を出したとき、無数のナマズの群が船を抱き、水先案内をし、戦勝されたことからナマズを神の使いとされた。
ナマズは普段は姿を見せないが、天下の変事には現れる。元和元年大阪夏の陣、寛永14年島原の乱、明治27年日清戦争、明治37年日露戦争、大東亜戦争終戦前に現れた。
皇后のセリフがよく分からないのですが、「なま冷たい」ということかな。
相変わらず馬乗りの好きな皇后ですね。
日本書紀で「海の中の大魚がみんな浮かび上がって船をたすけた」という話が
ここでは「ナマズが船を助けた」ということになっていました。
前回は日本書紀の記事を「津波が起こった」と解釈しましたが、
ここでも地震を象徴するナマズの名で伝わっていました。
神楽殿の上に奉納されたナマズの絵。
伏見神社の前の「一の堰」(鯰渕)
伏見とは?
昔の人はどうやって時刻を知ったのでしょうか。
昼は太陽を見れば分かりますが、夜は星を見ました。
星の観測は水平線を基準として、昇って行く星、
あるいは反対側に沈んで行く星で測っていたそうです。
高殿から水平線を見ることから星の観測を「伏し見」と言ったそうです。
言いかえると、伏見とは「水平線に出入りする星を観察すること」となります。
特にシリウスは夜空の中で一番キラキラと輝く星なので、
真っ先に目に飛び込んできます。
星の名前を知らない人でもすぐに分かります。
夜明けに起きて観ると、シリウスは西の空にキラキラと沈みかけ、
夜寝る前に見ると東の空にキラキラと昇り、よい指標となりました。
その為にシリウスを「明けの星」とも、「宵の星」とも呼んでいました。
津波や地震が起こる時には、海面が静止した時に、
シリウスが水平線から離れる瞬間に上下互いに溶け合ったように、
連なったように見えるのだそうです。
高殿からこのシリウスをしっかりと観測していたようすが目に浮かびます。
これを見たら、みんなに高台に避難するように警報を出さねばなりません。
こんなシリウスを「ヨドの星」とも呼んだそうです。
すると、淀姫さまはシリウスの化身とも捉えられます。
朝晩に、いつも夜空で見守ってくれて、そして津波が来ること教えてくれる。
そして「どうぞ、津波が起こりませんように」と畏れられた。
淀姫さまとはそんな存在じゃないかな。
「ズブさんのアイデア天体写真館」より戴きました。
http://www.ne.jp/asahi/suzuki/zubu/
夜空の中で一番大きく輝くシリウス
古代エジプトではナイルの増水を教えてくれる星として有名です。
ナマズと地震
海では外波の影響がない海淵を「沼津」「志登」と呼び、
星が揺らめく様子を観察して海の異変を観察していたそうです。
これが漢語の鮎魚(せんぎょ)と結びついて、
地震ナマズという説になっていったのではないかと、眞鍋氏は説明しています。
また砂鉄が真っ黒に浜辺に打ち寄せられるのも地震の前触れです。
黒く濡れた砂鉄の色から地震ナマズという言い伝えが生まれたことも
眞鍋氏は教えてくれています。
高天原(2) 砂鉄による地震予知の方法
http://lunabura.exblog.jp/13663273/
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神楽殿の上に奉納された二匹のナマズの絵、このナマズの絵をスキンにしたブログかHPをつい最近見ました。麻呂古皇子か来日ペルシア人かゾロアスター教を検索していた時だったと思う。
ビックリしました。もしかしたらこれを描いた人のHPだったのかも~。この扁額には平成15年とありますが、、、、
この写真の絵はそれを手本に描かれたものです。「神の使い」という言葉が書き加えられていたので、この奉納の紙の絵を採用しました。
川の流れに関して、私の頭の中には北から南へという刷り込みがあって、南から北へ流れる地形は、とたんに迷子になった気分になります。
奈良地方がどうしても頭に入らないのも、南北がつかめないからなんです。(・.・;) 大阪からいったん南に入って北上する旅のケースが多いからでしょうね。 方向音痴は古代史にとって致命的です。 (;一_一)
神功皇后の福岡ルートを見ていて
どうしてここで那珂川町が登場するのかピンと来なかったのですが
皇后が早良区脇山から脊振に登って頂上で壱岐対馬の方向を確認して
脊振神社や横山神社が出来たお話を聞いて少しルートがイメージ出来ました
楽しいですね