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ひもろぎ逍遥

シリウスの和名


シリウスの和名

冬の夜空にキラキラと輝く一番明るい星。それがシリウスです。
オリオン座が見つかれば、その左下にすぐに見つかります。
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シリウスとはローマ名で、他に、ソティス(ギリシャ名)ソプト・コプト(エジプト名)
天狼星(中国名)犬上星(倭名)といろんな名前を持っています。

シリウスは春分の日には正午に東の空に昇っていて普段は見えませんが、
大気が透明な時には見える事がります。
戦争中まで、要塞司令部では砲台の照準器の無限遠点の調整の為に、
金星とシリウスを白昼でも追跡する視力の特別訓練をしていました。

そんなシリウスは人々の暮らしの中で、さまざまな呼び方をされました。

宵星(しょうのほし)、暁星(ぎょうのほし)
古代人は日が暮れて寝る前にシリウスを見て宵星と呼び、早朝起きた時に空に残るシリウスを見て暁星と呼んだ。時計代わりの星だった。

夜門星(よどのほし)、夜通星(よどほしぼし)
筑紫でのシリウスの呼び方。冬、日が暮れるとまもなく東の空に現れ、明け方には西の空に没したことからついた名前。

恵蘇星(よそのほし)、与謝星(よさのほし)、耶蘇星(やそのほし)
キリシタンの正月であるクリスマスの前後に南中した事からついた呼び方。

とよみぼし・よとみほし
昔の有明海での呼び方で、平安時代の頃には豊姫あるいは淀姫が筑後三原と肥前佐賀に祀られていた。
潮の空間(からま=海面が静止した時)に、シリウスが水平線から離れる瞬間に上下互いに溶け合ったように連なる時は、必ず地震津波が現れると語られていた。
仲哀9(200)年の朝鮮攻撃の時も同じ現象が起こったと伝えられている。

昔の人は外界の波に動じない海淵を「沼津」「志登」と呼び、星影のゆらめきを見て、海の異変を観察いていた。やがてこれが倭語のナマズ即ち中国語の鮎魚(せんぎょ)と結びついて、地震ナマズの説となっていったか。

石籠星(いづらぼし)、澪標星(みおのほし)、夷守星(あかしのほし)
博多の古名を「石城府」と言う。昔、玄界灘と有明海に水路が通っていた頃、今の対馬小路(つましょうじ)から五十川、雑餉隈(ざっしょのくま)、水城を経て太宰府に至る間には、石籠(いづろ)あるいは石堂すなわち灯台が置かれて、潮の満ち引きにあわせて夜間でも航行が可能になっていた。井尻にも石籠があった。

シリウスそのものも灯台の代わりにしていた。伊豆石廊崎(いろうざき)、三河伊良湖崎、常陸五浦(いづら)の地名にも、その名が残る。

宋から元の時代(960~1368)、中国は博多津を五籠山と呼んでいた。場所は今津から姪浜あたりの事で、倭人は「いすら」と呼んでいた。異邦人の港だったために、外(袖)の湊と呼ばれていた。水深が十分にあり、各所に石籠が一晩中焚かれていた。
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イソラ神もシリウスの化身
石籠星(いづら・シリウス)は昔はもっと明るく、もっとも眩しく、凝視していると目がうずくほどの輝きがあった。
志賀海神社のイソラ舞では、神が白布で顔を覆うが、これは石籠星の象徴で、船人にとっては一番に目標となる星だった。いずら→いそらとなった。

風雪星(かざゆきほし)
シリウスは大気の成分や透明度によって種々に光を変えるので、漁師百姓はその色を見て天気がくずれるのを予測した。

ふゆしらす
シリウスが昇ると筑紫の那珂川では、各部落の庄屋は翌年の暦を作るので忙しくなった。

しらす
シリウスというローマ名を倭人が聞いたのは、耶蘇教の宣教師が日本に来た頃であるが、同じような発音の「しらす」の名が、すでに古代から百姓漁師の間で使われていた。

阿房星(あをのほし)未央星(みおのほし)
秦の始皇帝は咸陽に阿房宮(あぼうきゅう)、漢の高祖は洛陽の都に未央宮(びおうきゅう)という世界一の殿堂を建設した。

シリウスは昼は太陽と光を競い、夜は月と光を競う。そのシリウスを無上の憧憬をもって仰ぎ見た英雄たちの心が阿房・未央の名に秘められている。

阿房宮の着工は孝元帝(前213)年9月15日と伝えられる。陰暦15日は満月の日なので、この日、満月と光を重ねたシリウスが輝いていたことになる。

シリウスにこの中国の宮の名前が付いた理由は、倭人が大陸に派遣されて、その豪壮な阿房宮・未央宮を目の当たりにしたために、全天随一の明るさを誇るシリウスにその名を付けたのかもしれない。


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シリウス
「ズブさんのアイデア天体写真館」より戴きました。
http://www.ne.jp/asahi/suzuki/zubu/

節分星(きわけのほし)
シリウスが立秋の朝に東に見え、立春の夕べに西に見え、立夏の日中に南に輝き、立冬の夜中に南に輝く時代があった。そのために春夏秋冬の兆候を知らせる星として節分星(きわけのほし)と呼ばれた時代があった。

計算すると、現代との歳差が約20日なので、その現象が起こったのは、欽明帝元(540)年の頃になる。欽明天皇の「欽明」は「明(めい)を欽(うやま)う」という意味なので「明るいシリウスを敬う」という由来になる。

気分星(けぶらいほし) 化粧星(けはいほし)
シリウスを気分星(けぶらいほし)とも呼んだ。「けぶらひ」を平安の頃は「けはひ」と言い、「気配」と書いた。節季の「はしり」が燃え揺らぐようすを述べる方言古語だった。
シリウスの色調が千変万化するようすから、やがて化粧星(けはひほし)の名もついた。

鵲裳星(からすきほし)石匠星(せきしょうのほし)
シリウスが明るく輝く頃になると、山の峰のひだに初雪が積み始める。これを祖先は鵲(カササギ)の黒と白の羽根に見立てた。夜目にも白く光る細いすじは、初冬の訪れを教えた。

「鵲裳星」を音読みすると「せきしょう」で、これに別の漢字「石匠」を当てて石匠星(せきしょうのほし)とも言った。
シリウスの色を祖先は坩堝の中に眩く輝く溶融した金銀に見立てていた。冬枯れの宵にこの星が昇ると、蹈鞴の火を操る工人は仕事の成就を願って、この星に手を合わせて火を点けた。

◆ここで述べられるカササギは別名「カチガラス」です。
見かけはカラスに似ていますが、黒と白色の二色の鳥で、
秀吉が朝鮮半島から連れて来たと言われています。カチガラスの写真はこちら。
http://photozou.jp/photo/show/147212/26353480

湯面星(めつらぼし)湯具星(ゆのぐほし)
「湯」とは鋳壺(いつぼ=坩堝)の中に虹のように高熱の蒸気が炎色反応をしているすさまじい光をさす。
「具」とは溶融合成すべき金銀銅鉄錫などの重金属材料をさす。
シリウスの光を坩堝の中の光と重ね合わせた事から付いた名。

五十星(いそのほし)活目星(いかたらしのほし)最明星
エジプト人は夏至の東天に上がるシリウスをソティスあるいはコプトと崇めた。
中東では一年365日を七か月に分けていた。従って、一か月は52日になる。五十を「いか」と呼び、残りの二日を「たらし」と呼んだ。五十二日は「いかたらし」となる。

52日×7カ月=364日。一年に足らない残りの1~2日も「たらし」と呼んだ。
エジプトでは夏至の正午をもって一年の中日としていた。「いかたらし」とはまさに灼熱の砂漠の真昼を形容した光景であった。
従って、「五十日帯」(いかたらし)という和名も「夏至の日に上がるシリウス」の倭訳であったものと見える。

皇極帝(のちに斉明帝)の名前は「天豊財重日足姫天皇」(あめ・とよたから・いかしひたらし・ひめの・すめらみこと)で、その中の「いかしひたらし」はシリウスをさす。
「皇極」とは磁針の事である。当時、人工の磁石を坩堝で作って鍛練する時代が到来していた。日本はこの頃から和船にも必ず磁石を携行させた。
シリウスを最明星ともいう。全天で一番輝く星という意味である。
「皇極」ならびに「斉明」という諡号はまさに磁石生産の時代に入った事を象徴する名前であった。

シリウスの輝きの連想から、坩堝の達人を石上(いそのかみ)あるいは五十師(いそし)あるいは伊覩率(いとし)などと呼んだ。

一目星(はなみのほし)
倭国に来た胡人(中東あたりの人)の緑眼高鼻の風貌から受ける印象と、その特技である蹈鞴の眩しい光をよく描写している。

卒土の星(そつとのほし)
卒土の星(そつとのほし)はソティスの音写と思われる。

俘屠星(ふとのほし)
これは太身族の故郷の栄枯盛衰の歴史をよく説明している古名である。

以上、真鍋大覚『儺の国の星』『儺の国の星・拾遺』を要約しました。
あちこちに散見する文を並べ直して、書きなおしたものなので
この先、訂正加筆する可能性があります。




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by lunabura | 2011-05-25 21:37 | <星の和名・天文> | Comments(0)

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