2011年 05月 27日
若八幡宮・多々良川―古代の製鉄―イラスト
若八幡宮
福岡市東区多々良
多々良川―古代の製鉄―イラスト
福岡市には多々良川という名前の大きな川が流れています。
「多々良」まさしく「蹈鞴」と同じ発音です。
今回は地元の地名と地形に詳しい聖洲さんに
古代の多々良川を案内してもらいました。
多々良川の下流の右岸から300メートルほど入ったあたり、
車が一台ようやく通るような細い路地を通ると「若八幡宮」がありました。


石段を上っていきます。

拝殿は小さな丘の頂上にあり、周囲を見晴らすことができます。
境内の広さは、先週紹介した風早神社とほぼ同じで、川の傍という点も似ています。
すると?―そうです。
やはりここには古代には製鉄所があり、鉄を守る神様が祀られていたそうです。

拝殿前から参道の方を撮りました。
次は現代の多々良地区の航空写真です。こんもりとした所に若八幡宮が見えています。
(写真を一度クリックすると、自由に動かせますよ)
地図 若八幡宮 顕孝寺 香椎宮
1000年以上も前にワープすると、こんな感じ!

聖洲さんがこの神社の周囲の古代の光景を再現してくれました。
今立っているところは中央の上の森あたりになります。
手前の川は多々良川。現在はまっすぐの堤防が作られていますが、
古代にはこうして岬になっていて、地名にもその名残が残っているそうです。
また、ビルの下からは古代のドッグの積み石が発見されています。
絵の左に黒煙を上げている大きな窯があります。製鉄の窯です。
調べても古代の製鉄窯は残っていないので、全く想像だそうです。
でも、それらしい雰囲気があります!
すぐ近くに小舟が停留していますが、砂鉄が山のように積まれています。
燃料は、ここから少し離れた八木山で天然の無煙炭が露天掘りで採れていて、
「しょうけ(籠)」に入れて運ばれていたそうです。
地の利がとてもいい所だったのですね。
「しょうけ」と言えば、八木山が難所のために神功皇后の赤ちゃんを「しょうけ」に入れて運んだために「しょうけ越え」という地名が起こったという伝説が有名ですが、
この無煙炭を運んだ話と入れ替わって伝わっているのだそうです。
そう言えば、そうですね。赤ん坊をショウケに入れて運ぶ方が難しい。
絵には遣唐使船が描かれていますが、これは遣唐使船というより、
韓半島などから直接やって来る民間の大型船だそうです。
その船が繋留されているのは顕孝寺。
当然ながら大陸から韓半島までの最新情報が入ってきます。
この情報を求めて、はるばると香春岳の採銅所や宇佐(神宮)から
情報収集に集まって来ていたそうです。
次はここで採れていたスズ鉄のイラスト。

葦の根元にバクテリアが鉄を集めて、茶色の塊が出来ているようすです。
葦は海と川の水が交わる所で育つそうで、それを刈り取って乾かして燃やし、
灰にして水に混ぜ、沈殿させて比重差を利用してスズ鉄を採ったそうです。
聖洲さんの子供頃までは葦がいっぱい生えていて、鳥も沢山いたそうです。
古代では多々良川の三つの支流で葦を刈り取ったあと、
一部に稲を蒔いていたそうです。一年ごとに稲作の場所が変わったとか。
葦と稲の輪作なんです!
これは同じ絵の全体のようす。

ここには神功皇后の伝説も残っていました。
彼女は出産するために、この辺りから上陸したと伝わっているそうです。
左には名島神社。そして廻り込むと向こうに香椎宮が見えています。
神功皇后はこの辺りで破水しかけたという話もあるそうです。
タタラの鉄が流れ出す様子とあいまってそんな伝承が生まれたのか、
実際そうだったのかは遠い昔の事で、霧のかなたです。
それにしても、イラストのお蔭で古代社会のイメージがよくつかめました。
聖洲さん、ありがとうございました。
ここも安徳台のあった那珂川町と同様に那の国なんですよ。
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若八幡宮の位置、地図の縮尺を変えてみたら分かりました。香椎の宮の近くですね。近いといってもどれくらい?地元の人間でないとピンときませんね。
それは近畿の場合でも同じことだと思いますが~。
カテゴリ、整理されて探しやすくなりましたね!!
地図が呑み込めたとき、初めて色んな事が理解されるんでしょうね。
カテゴリ、ツリー化しないと、もう大変な状況になりました。エキサイトでツリー化できる方法を捜したのですが、見つかりません。一年半で、こんなに神社をUPしてしまったので、この先どうなる事やら。
今のところ、数分掛けて一つづつ移動してます。でも褒めて頂いて、苦労した甲斐がありました。
中世以降はどこで鉄が作られてたんでしょう。黒田藩の刀工はどこの鉄を使ってたんでしょう。ご存知だったら教えてください。
(昔この近くに住んでいました。)
砂鉄が取れて、名前が多々良川なら絶対製鉄のあとだ、と思って検索しました。面白い話がいっぱいで、ゆっくり読ませていただきます。
この地の製鉄に関して、地方誌を見ると、鉄滓が出ていないので、製鉄そのものもなかったと学芸員?(考古学者?)の方は否定しています。
スズ鉄の場合は鉄滓が出ないので、その論法は成り立たないのですが。
鉄に関しては、確か部木神社に関連があると聞いて、行ったのですが、
由緒書などがなかったので、記事にしていません。
「へき」と読みます。多々良川から内陸に入った所にあったと思いますが、今ちょっと思い出せません。
黒田藩について調べてあるのですか?
その時代については全く知りません。
江戸時代は芦屋などが有名だったので、遠賀辺りから運ばせたかも知れませんね。
あるいは犬鳴山でも製鉄をしていましたが、江戸時代かどうかは分かりません。(ここの可能性は有るかも)
多々良川流域では黒田藩の瓦は焼いていたと言います。
あの十字架のついた瓦の土は当地でしか採れなかったとか。
瓦職人もクロスかそれらしきものを置いて焼いたと聞きました。
黒田半の刀の鉄はどこから来たのかって、考えて………
はなさん、よかった。
宮地嶽関係を見直していたら、
「金山たたら製錬所跡・江戸中期以降・出雲よりたたら製鉄技術を導入」
という記事を書いていました。 (・.・;)
福津市の津屋崎の鉄を渡半島で選別して、犬鳴山で製鉄をしている記録が出て来ます。
製鉄にはコンスタントな風が必要なので、山でするそうですよ。
黒田の殿様が見学に来たそうですので、中期以降ならそこも一つでしょう。
その時の最先端技術を導入したと思われますが、もともと製鉄の基盤があった所だと思います。
http://lunabura.exblog.jp/16450288/
あるいはサイドバー<遺跡・史跡>から入ってください。
金山からくる道が唐津街道と合流するのが香椎あたりかな。多々良の蓮華坂は鉄を運ぶ馬にもつらかったでしょうけど。刀工は企業秘密もあったでしょうから、やはり、城下に仕事場を持ってのではないかと。これは願望です。
玄海灘沿岸で砂鉄を採って、犬鳴まで運ばなければならない事情は、
どこかのHPにも載っていたような。
出来た鉄は、はなさんが予測されるように城下町で作ったのではないでしょうか。
鍛冶場も必要ですが、鞘を造る人、束を作る人、そう言った人たちの集まる場所は、城下の重要地に置かれたことでしょう。
丹念に古地図を見れば、地名が残っていると思いますよ。
鞍手のカジワラさんとか、刀鍛冶だったと言い伝えているし。
きっと、具体的な足跡が見つかると思います。








