2011年 05月 29日
日守神社・神功皇后伝説と夷守駅とドルメン石
日守神社
ひまもりじんじゃ
福岡県粕屋郡粕屋町仲原西区
神功皇后伝説と夷守駅とドルメン石
ずっと心に引っ掛かりながら、一年たってようやく訪れることが出来ました。
607号線、錦町の信号から柚須方面に進むと粕屋仲原郵便局があり、
その脇から入って、数軒目に神社はあります。駐車場はありません。
神社は参道を残して、家々に取り囲まれています。
神社を中心にして発展した名残ではないかという印象を受けました。


ささやかな遊具が置かれていて、町の鎮守様のような風情です。
この小さな神社には古い歴史が残されていました。
神功皇后
日守(夷守)の由来のはなし
神功皇后(じんぐうこうごう)は、お産のために現在の宇美町に向かいましたが、その途中、現在の粕屋町乙仲原西区にある日守付近で休憩しました。
そして“日を守りたまいて(太陽をじっと見て)”、「今は何時頃ですか。」と尋ねられました。
この伝説から、休憩した場所を「日守(ひまもり)」と呼ぶようになり、神功皇后が腰掛けた場所をまつって日守神社ができたと言い伝えられています。
(粕屋町のHPより)
前回の若八幡神社からは直線で1.5kmほど南の位置にあります。
神功皇后はこうして休み休みしながら宇美へ向かったのでしょうか。
彼女は途中からカゴに乗り換えた事が駕輿丁八幡宮の伝承から分かります。
通ったルートが特定できるのではないかと錯覚させるほど、
彼女の足跡が濃厚に残されていました。
地図 香椎宮 ⇒ 若八幡宮 ⇒ 日守神社 ⇒ 駕輿八幡神社
夷守駅家
人口も少なかった当時、重要な地点は歴史的に継続されるもので、
奈良時代にはこの場所は夷守駅となって、万葉人が行き交いました。
由緒書きがありました。
夷守駅と歌碑
奈良時代、聖武天皇の時代(724-749)、九州には大宰府が置かれ、政治の中心でもありました。奈良の都への交通の手段は、主に馬によってなされていましたが、当時九州には、11の駅家(馬と人夫の宿)が置かれていたとされています。夷守(日守)はその駅が設置された場所とされ、西海道の交通の拠点でもありました。
万葉集第4巻には次のような歌が詠まれています。
草枕 旅ゆく君を 愛(うつく)しみ 副いてぞ来し 志可の浜辺を
この歌は大宰府の帥(そちー長官)であった大伴の旅人が奈良の都にいる弟の大友稲公、姪の胡麿に遺言を伝えたいと申し出たところ、天皇は両人を勅使として見舞いに訪れさせました。
幸い旅人の病気が全快したので、二人は都へ帰ることとなりました。大伴百代・山口若麿・大伴家持らがこの日守まで送り、ここで別れの宴を催したとき、二人との別れを惜しんで大伴百代が詠んだ歌だとされています。
粕屋町で唯一の万葉歌詞詩で、地元の方々の浄財によって、この歌碑が建立されています。
粕屋町教育委員会
大宰府からは船で一緒に乗って来たのでしょう。
ここで上陸していよいよお別れです。宴が出来るようすから、
駅家にはある程度の施設があった事が伺えます。
ここからは馬を乗り継いで、山越えして、豊前に抜けて行ったと思われます。
ドルメン石
拝殿の左脇に平たい石がありました。

ドルメン石のようです。もともとこの辺りは遺跡だらけだったらしく、
田んぼにしようと掘れば至るところから甕棺などが出て、
鏡や勾玉など、農家はその処置に困って、神社などに持っていったようです。
考古学が生まれる前なので、仕方がないのですが、
箱崎宮の鐘が鋳造される時に、集まった青銅鏡が
たしか一万枚ほどはあったと聞きます。
そのために考古学的な研究は困難になっているようです。
このようなドルメン石も、あまりにありふれたもので、
取り敢えず近くの神社へと持ち込まれたものかも知れません。
それでも、神社という形態があったので、この地の歴史が地名と共に残されました。
神社も地名も大切なものですね。

境内にあった桜が、ちょうど見ごろを迎えていました。
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よほど状況が変わらない限り~
神社は地域の保存センターになっているのですね。遺物や文化の保存にはお金がかかるものですよね。
神社の伝承と考古学的な研究が合体したら、本当に面白いです。
同じ粕屋町の須恵川をはさんだ反対側、阿恵の天神森の地にも「日守八幡神社」があります。
こちらの神社は国鉄篠栗線(現「ふくほくゆたか線」)が横断する際に、
現在の地に移築されたらしいです。
隣町である志免町のHPでは、「むかしばなし」の「方が島」の項で
阿恵の日守八幡神社のことが記載されています。
そこに書かれてある「御手洗」の地、
こちらは宇美川沿いで、日守の近くを流れる須恵川ではないのですが・・・
表糟屋にはまだ皇后伝承のお宮が他にもありますよね。
いえ「日守八幡神社」ですよね。
これは大変。
私が間違えたかな?
「日守神社」と「日守八幡神社」と名前が違うので変だなと思ってたんです。
済みません。
詳しく教えてくださいませんか?
阿恵とか、志免とかよく違いが分からないのです。
表粕屋の神功皇后伝承のお宮についてもよろしかったら。
「日守神社」と日守八幡神社」
それぞれ別の場所にあります。
糟屋郡粕屋町阿恵の「日守八幡神社」
粕屋町大字阿恵天神森288番地
今の住所表記では「粕屋町阿恵288番地」となります。
GoogleMapなどでは「八幡宮」としか表記されていません。
鳥居にも「八幡宮」の扁額がかかっているので
判りづらいかもしれませんが、
宗教法人登記上での施設名は
「日守八幡神社」となっています。
表糟屋の皇后伝承のお宮、
糟屋郡志免町御手洗の地の宇美川沿いに「御手洗八幡宮」、
糟屋郡粕屋町の駕輿丁公園の池のほとりに「駕輿八幡神社」、
糟屋郡須恵町旅石の地に「八幡宮」
などが鎮座されています。
失礼いたしました。
追記となりますが、
「日守八幡神社」の由緒ですが、
御祭神:応神天皇 神功皇后 菅原神
由緒:神功皇后三韓征伐の砌宇美にて御生の際此の地に暫く駐輦、
何事ならんかと日を守り給いしより字の名を「日守」と云い
「日守石」もあり創建せられしお社にて
後篠栗線の横断に依り天神森に移築天満宮と合祀す
(明治四十三年六月三日)
上記のデータは昭和四十一年に当時糟屋郡篠栗町のとある神社の宮司さんによって編輯された
「粕屋郡神社誌」よりの抜粋です。
裏糟屋である古賀市ではありますが、
古賀町鹿部、現在の福岡県古賀市美明1丁目19−1に鎮座する
「皇石神社」も神功皇后の伝承のあるお宮です。
御祭神は埴安神ですが、由緒として
「口碑に曰く神功皇后新羅を征し給はんとこの地に来り給にしに
平らかな大石を見そなし吾新羅を征する力あらばこの大石も直立し得べしと願いて
起し給ひしに容易く直立し依り神祇を祭らせ給ひ後世社殿を建て
皇后の皇と大石の石をとり社号を皇石神社と仰ぎしとなん境内に古器物を発見することあり
明治三十一年正月社殿の後より銅剣二口を発見し二〇〇〇年前の物と鑑定す帝室博物館に保有される」
とあります。
さきほど志免のHPを見ましたが、神社の記載がないので、とりあえず地図から調べようかと思っていた所です。
神功皇后のガイドブックの原稿にはすでに日守神社の方を
出しているのですが、ただしくは「日守八幡神社」の方ではないかと考えていたものですから、とても驚きました。
皇石神社、旅石八幡宮については当ブログで記事にしていますが、
こうして古い資料を教えてくださるととてもありがたいです。 <(_ _)>








