人気ブログランキング | 話題のタグを見る
ブログトップ

ひもろぎ逍遥

王子八幡宮・竈門神社・地名から推測された那国本宮の地・応神天皇出生地であり、玉依姫の陵墓なのか?


王子八幡宮・竈門神社
福岡県粕屋郡志免町南里宝満山
地名から推測された那国本宮の地
応神天皇出生地であり、玉依姫の陵墓なのか? 


福岡市の中央に福岡空港がありますが、その東には丘陵地帯があって、
現在は博多の森という総合運動公園があります。
その東に志免町があり、独立した岬のような場所に王子八幡宮があります。

王子八幡宮・竈門神社・地名から推測された那国本宮の地・応神天皇出生地であり、玉依姫の陵墓なのか?_c0222861_10411716.jpg

入り組んだ細い道を辿ると、こんもりとした杜の神社に着きました。
ここが王子八幡宮です。

王子八幡宮・竈門神社・地名から推測された那国本宮の地・応神天皇出生地であり、玉依姫の陵墓なのか?_c0222861_10433422.jpg

石段を二つ上って行きます。

王子八幡宮・竈門神社・地名から推測された那国本宮の地・応神天皇出生地であり、玉依姫の陵墓なのか?_c0222861_1044262.jpg

巨木が生い茂る中に神殿がありました。

王子八幡宮・竈門神社・地名から推測された那国本宮の地・応神天皇出生地であり、玉依姫の陵墓なのか?_c0222861_10442046.jpg

裏手のゆるやかな傾斜を登ると、筑紫野市の宝満山~三郡山が見えます。
全方向の見晴らしの良さから、ここは古代の重要拠点だというのがよくわかります。
いったいどんな歴史が埋もれているのでしょうか。
まず、「王子」とはいったい誰でしょうか。由緒書きがありました。
王子八幡宮
祭神 応神天皇
社格 村社 (略)
例祭日  歳旦祭 1月1日
      祈年祭2月26日
      早苗祭 7月10日前後
      例祭 10月17日
      新穀感謝祭 11月23日

王子とは応神天皇でした。すなわち神功皇后の御子です。
一般的にも八幡宮の祭神は応神天皇ですが、一柱だけというのは珍しいです。
ここに応神天皇が祀られている事が唐突なようですが、
神功皇后が辿った出産へ道中の伝承を残す、
若八幡宮~日守神社~駕輿丁八幡宮からさらに宇美八幡宮へと続く
ルート上にあるのです。(駕輿八幡宮は、籠かきの人たちの住居跡と推定)

地図 王子八幡宮 若八幡宮 日守神社 香椎宮 宇美八幡宮 駕輿丁八幡宮


このルートを地図上にプロットしながら、宇美八幡宮へと行くなら、
もっと奥の方まで船で行ったほうが楽だったのではないかという疑問が生じていました。
宇美八幡宮には、竹内宿禰たちの居城でもあったのだろうか…。
皇后の出産ですから、警護が十分な所でないといけません。

そして、一方で神功皇后が以前に玉依姫の陵墓に参拝した時に、
「姉となって、護りましょう。」
と玉依姫神の神託があったという話も頭から離れませんでした。

神功皇后は、天皇の代わりに倭国の軍勢を率いる重圧に耐えきれなくなると、
きっと玉依姫神の加護を祈った事でしょう。
宇美八幡宮へはあと一息という地点に、皇子が祀られている…。

ここは王子八幡宮ですが、「竈門神社、宝満宮」があって玉依姫が祀られていました。
上一宇造立 西海道筑前国粕屋郡南里村
御斎殿 寛永二十年2月上旬(西暦1643年)
末社 竈門神社 祭神 玉依姫命
    宝満宮     玉依姫命
疫神斎
倉稲魂命
五穀神        保食神


王子八幡宮・竈門神社・地名から推測された那国本宮の地・応神天皇出生地であり、玉依姫の陵墓なのか?_c0222861_10515574.jpg

摂社の右奥が竈門神社です。

王子八幡宮・竈門神社・地名から推測された那国本宮の地・応神天皇出生地であり、玉依姫の陵墓なのか?_c0222861_10521282.jpg

祠の中を見ると玉依姫の神像がありました。が、最近、火災に遭ったようです。

応神天皇と玉依姫が、どう関係あるのでしょうか。もう一つの由緒書きを見てみましょう。
村社 王子八幡宮  由緒
本社殿ははじめ南里字キンメイに鎮座されてあったが、大正11年4月17日、現在の日枝に鎮座の無格社竈門神社 境内に移転されたものである。(略)

続風土記付録
神殿一間四方 拝殿二間三間 産神なり
林中にあり、祭る所、応神天皇一座なり。鎮座の年や歴史は伝わっていない。
旧お宮の境内参道脇に元治元年(1864年)の銘がある石柱がある。当宮関係最古の物なり。境内に氏神御移転の碑あり。

この由緒から、ここはもともと竈門神社で玉依姫を祀っていたのが、
大正時代に王子八幡宮が移転されて合祀されたのが分かります。
鳥居の扁額には「宝満宮」と「王子八幡宮」の二種類がありますが、
地図帳を見ると王子八幡宮の名前の方が書かれていて、立場が入れ替わった事が読み取れます。

王子八幡宮の元宮があった「キンメイ」という場所は300mほど北側の
宇美川のほとりにあって、今でもその小字名が残っていました。現在は住宅が建っています。

聖洲さんはこの辺りの地名を調べて行くうちに、
かつてここに大きな建造物や祭殿や製鉄所を示す小字名が集まっている事に気づきました。例えば、

●「タタラ」「土穴」などの製鉄関係の地名がある。
●「鏡」という小字名の地からは鏡が7~8枚出土していた。
(昔の事で、これらは各神社へ奉納されたとか。)

●「大府」「マツリデン」「東の府」「南の府」「西の府」「タイコデン」
という都府や宮殿を示すような小字名がずらりと並んでいる。
●「宝満」「宝満山」という有名な宝満山と同じ字名がある。

●そして、「桝角(ますかど)」という字名の由来を調べてみて、
それが神殿などの屋根の下の飾りの構造物を示す事を知って、
ここに宮殿があった事を推定するに至りました。
●考古学的には、「仮屋」という小字の民家の地下から甕棺が発見され、
縄文式の土器やアレキサンドライト石などが出て来た。

アレキサンドライトは日本では採れないので、
遠い異国からもたらされた事が分かります。
これを所有するのは身分の高い人である事を示唆しています。(これらも、喪失)

聖洲さんは「仮屋」は「モガリ屋」で、墓所を示していると推測しました。
そして伝承を調べ、ここが那国の本拠地であり、宮殿があり、
那国の姫である玉依姫の墓所があった所ではないかと推定しました。

伝承には「南里の宝満宮に玉依姫の墓所がある」というものもあり、
この地こそ「南里」(みなみざと)なのです。

一方、私も同様に「玉依姫の墓所が『南里の宝満宮』にある」という伝承を知って、
宝満宮をいつか見つけたいと思っていました。
「筑紫野市の宝満宮」はすでに江戸時代から大捜索されていて、
そこには存在しないことが分かっていました。しかもそこは南里ではありません。

そうして、ついに「南里の宝満」を見つけていた人がいて、
玉依姫の陵墓を推定しているという話に辿りついたのです。

最初に聖洲さんは私に尋ねました。
「どうして、私の話を聞きたいと思われたのですか?」
「神功皇后は誰も知った人がいない筑紫で出産しようとした時、
唯一、心のよすがとなったのが玉依姫で、
せめてその墓所で護られて産みたいと思ったのではないかと考えたのです。」
「その通りです。」
初対面の時に、二人の意見は一致していました。

聖洲さんは、那国本宮の絵を描こうと思い立ち、
那国の離宮である名島神社で金箔の瓦が出土した事から、
本宮にも金箔の瓦が葺かれたと推定しました。
桝角のある建築物と言う事で、中国の技術者集団による建造ではないかと考え、
次のような那国の都を想定しました。

王子八幡宮・竈門神社・地名から推測された那国本宮の地・応神天皇出生地であり、玉依姫の陵墓なのか?_c0222861_10542893.jpg

黄色で描かれた地名が現代に残る小字名です。中央に那国の本宮があります。
手前に「マツリデン」があり、さらに手前に「大府」があります。
これが迎賓館です。その右手前に「タタラ」と「土穴」。
そして、その奥に王子社。「キンメイ」(金命)です。
この「金命」に神功皇后はやって来て、応神天皇を生みました。

それより数百年前に、玉依姫は子供たち(神武天皇ら)が東征したあと、
那国に残って、この宝満山に登って無事を祈り続けたそうです。
その麓の「仮屋」という所が玉依姫の陵墓で、堀で囲まれています。
この絵はあくまでも聖洲さんの想像ですが、弥生時代がどんな時代であったか、
多くの示唆を与えてくれます。

歴史からこの「宝満宮」の名前が消えた訳は、
天武天皇が、この小さな「南里の宝満」では畏れ多いので、
もっと壮大な山である「太宰府市の竈門山」を
「宝満山」に変えるよう、命ぜられたという事だそうです。
(名島神社宮司談)


宇美八幡宮の方が応神天皇の出生地として有名ですが、長い歴史の中で、
元宮の存在が忘れ去られてしまった可能性があるのではないかと思っています。
(元宮が忘れ去られたのは、これまでも何か所かありましたね。)

伝承によると、三韓征伐後、大矢田宿禰という人は現地(新羅・百済)に残って、
妻を娶り、三人の子が生まれました。
10年後に帰国し、神功皇后が南里で出産されたと聞いて、この地にやって来て、
ここで亡くなられたという話も残っているそうです。

この王子八幡宮の地名と伝承について、古代史研究の方々に
大いに注目していただいて、研究していただきたいなと思いました。
 



気が向いたら、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
王子八幡宮・竈門神社・地名から推測された那国本宮の地・応神天皇出生地であり、玉依姫の陵墓なのか?_c0222861_15184581.gif


Commented by じゅんじゅん at 2011-06-02 19:02 x
神社の鎮座地の変遷をたどるのはむつかしいですね。
高天彦神社だって、延喜式神名帳にのった時が一番古い記録ですからそれ以前のことはわからないようです。
Commented by lunabura at 2011-06-02 20:18
そうですね。まだ、こうだという説を立てられる状況ではないので、とりあえず、一か所ずつ、伝承を丁寧に解釈して行くというスタンスではいようと心がけてはいます。
ここを祀っていた人たちが集団移動してしまえば、新しい宮の方が本宮へと発展していくので、何か所にも同じような伝承が伝わるのが当たり前の事で。祀る人がいなくなった元宮は、自然消滅の可能性も大ですよね。
今の段階で伝承を整理しておくのは重要だなと思うんですよ。地形があまりにも変わっていくので。バブル期からの変貌が激しいので、後世の人たちはさらに、歴史をたどるのは困難になるんでしょうね。
出来るだけ、地元の方々の伝承を残せたらと思っています。
Commented by jumgon at 2011-06-02 21:50
今の段階で伝承を整理しておくのは重要というのは本当ですね。
もちろん地名も~。そちらでは地名がよく残っているように思えるのです。
Commented by lunabura at 2011-06-02 22:49
そうですね。最近では、駅前〇丁目とか、寂しい地名に変わる所もあるので、市役所の人たちにも、地名の大切さを認識していただけたらと時々思う事もあります。
飛鳥という地名はまだ認知度は0に近い事でしょうが、近畿と筑紫と重なりあう地名を出し合えたらいいですね。
by lunabura | 2011-06-02 11:00 | 神社(オ) | Comments(4)

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25

by luna