2011年 06月 06日
御勢大霊石神社・「愛する夫の御魂を鎮めた霊石」ついに異伝―仲哀天皇の崩御
御勢大霊石神社
みせたいれいせき
福岡県小郡市大保龍頭
「愛する夫の御魂を鎮めた霊石」
ついに異伝―仲哀天皇の崩御
前回の竈門神社から一キロほど南に下った所に御勢大霊石神社はあります。
最近この神社の名前を何人からか聞いて、行って見たくなりました。
雨の中、日が暮れる前に何とか下見だけでも、と探すと、
大保駅の近くの道路沿いにありました。

大きな神社です。周りは平地で、珍しく登りのない参道です。
清らかな池の上にかかる太鼓橋を渡ります。

境内は広くて周りの巨木が伸び伸びと枝を広げています。

拝殿も大きくて、威風堂々としています。
参拝を済ませて、裏手の神殿を。

おっきいなあ。
驚いた事に御祭神は仲哀天皇でした。
しかも、この宮を建てたのは神功皇后だそうです。
いったい、何故?ここに。どんな事情があった?
今回は由緒書きの原本らしい「福岡県神社誌」から。詳しく書いてあります。
難しいので、現代語に意訳します。
御勢大霊石神社
延喜式神名帳筑後国四社一小社
所在地 福岡県小郡市大保字龍頭1032番地
主祭神 足仲彦大神(14代仲哀天皇)
副祭神 天照皇御神・八幡大神・春日大神・吉富大神
御創立 神功皇后 摂政2年創立。
社記に曰く、天皇が筑前国橿日宮(かしいぐう)で崩御された。しばらく男装をして、石を天皇の形代(かたしろ)として持って、三韓攻撃におもむくと、日数もかからずに敵は降伏した。
凱旋の後、「大法の郷」(大保の地)に宮柱を立てて、その石を祀り、「御勢大霊石神社」として祀られた。
社前に天皇の剣と衣装を納められた。これを「御本体所」と言う。
「勢(せ)」とは「夫(せ)」の意味で、皇后が天皇を呼ぶ時の呼称から付いた文字で、御魂代(形代)の石の事である。
欽明天皇、天武天皇、宇多天皇、鳥羽天皇高倉院の御代に再興。(略)
これを読むと、香椎宮で亡くなった天皇の身代りに「形代の石」を持って、
神功皇后は戦争に行き、凱旋してから、この「大保」の地に
石を祀ったのが分かります。その時、天皇の剣と衣装を納めました。
神社の名前の「御勢」については、天皇が生きている時に
神功皇后が天皇を「せ」の君と呼んでいたその呼び方をつけたのが由来です。
(当時は夫や恋人を「セの君」と呼んでいた)
ですから、「御勢大霊石」を意訳すると、
「愛する夫の君の御魂を鎮めた石」という事になります。
(ん~。ここで初めて二人の愛情関係を示唆する伝承が見つかった…。)
それで、あれっと思ったのですが、
神功皇后の「鎮懐石」(ちんかいせき)ってこの事かも?
この石が、お産が遅れますようにと祈りを込めたというのは、人々の噂であって、
本当は「天皇の魂を鎮めた石」だった!?
ゴシップ好きなのはいつの世も同じで、誤解されて噂されても、
天皇の死を隠さないといけないので、弁解出来なかった。
いや、まさか庶民たちがこんな噂をしていたとはつゆも知らなかった。
というストーリーになります。
しかも、日本書紀は、噂のほうを正史として書いてしまった。
これは全く新しい解釈!
神功皇后の気持ちを考えると、せつないな。
成末神社

境内には摂社がいくつか並んでいます。
これは「成末神社」です。「仲哀天皇荒魂」を祀っています。
木が生えて、どれが御神体石か分かりにくくなっていますが、
神社の中でも一番重要な祠になると思われます。
それにしても、「大保」(おおほ)にわざわざ天皇の荒御魂を祀る理由はこれでは分かりません。
それは、「福岡県神社誌」の続きから読み取る事が出来ました。
そこには異伝が。
また伝説に曰く、
仲哀天皇が熊襲攻撃に当たり、橿日の本陣からここに軍勢を進めて、宝満川と垢離川の合流地である大保が、白洲で清浄な所だったので、まず天神地祇を祀って、仮の陣営にした。
一日、近臣を従えて、士気を鼓舞するために前線を廻って、たそがれ時に戻る途中、敵の流れ矢に当たってしまった。近臣は驚いて仮宮にお連れして看病したが、長くもなく崩御された。
時あたかも激戦中で、士気の沮喪を畏れて、深く秘密にして仮にモガリをした。それが、今の御本体所です。戦が一段落して軍勢をまとめ、ご崩御を布告し、御遺体を橿日に遷しました。
皇后が三韓攻撃から凱旋後に天皇の形代の石を魂石とし、甲冑と衣裳を納め、三韓鎮撫の神として祀りました。
例祭日 12月14日
仲哀天皇が敵の矢に当たって亡くなった話は、糸島方面にも残っていて、
いつかまた出会うだろうと思っていたのですが、
まさか、筑後地方にもこんな伝承があったとは…。
これを読むと、ここは陣営の跡で、仮宮も建っていて、亡くなった地でもある訳です。
仮のモガリをしながら戦況が落ち付くのを待ったのでしょう。
モガリ

木が生い茂っていますが、裏手に廻ると、

ご神体石が残っています。甲冑などを納めた所でしょうか。
記紀との違い
崩御の布告がされた時期が日本書紀と大いに違っています。
日本書紀では、約二年間隠されて、山口県の豊浦宮で布告しています。
この地の伝承では、ここで密かにモガリをしたのち、崩御を布告しています。
天皇が流れ矢に当たった事をみんなが知っていたので、
隠しおおせなかったのでしょう。
死因も記紀では神懸かりの時に琴を中途半端に引いたために、
神が怒って命を奪うような話になっていました。
(絶命した原因は脳卒中かな、なんて考えていました…。)
鎮懐石の噂も、まともに信じてました…。
あ~。日本書紀に謀(たばか)られた…。
ま、まだどちらが正しいのか分からないので、あまりがっかりせずに、
この御勢大霊石神社の伝承をまとめると、
香椎宮から二日市水道を通って、この大保の地で陣営を構えた仲哀天皇の軍勢は、
熊襲と戦った。ある日、前線を廻った仲哀天皇は流れ矢に当たって、まもなくこの大保で崩御。戦闘中だったので、崩御を隠してのモガリだったが、一段落すると、崩御が布告され、遺体は香椎宮に移された。
神功皇后は石に天皇の御魂を鎮め、懐に入れて戦い、凱旋して出産後、再びこの大保にやって来て、天皇の剣や甲冑、衣裳を納め、荒魂を鎮めた石を納めた。そして、「背の君の御魂を鎮めた石」という意味の「御勢大霊石神社」と名付けた。
という事になるのでしょうか。
何となくしんみりとします。ようやく皇后の心に触れたような…。
地図 御勢大霊石神社
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