2011年 06月 09日
渡の牧跡・神代に放ち給う馬の牧跡
渡の牧跡
わたりのまきあと
福岡県福津市津屋崎町渡
神代に放ち給う馬の牧跡
「つやざき」という津屋崎町の誌史に「神代に放ち給うた馬の牧跡」がある
という一文が忘れられずにいたのですが、どこから手をつけたらいいのか分からず、
文化財課を尋ねて、いろいろと教えていただきました。
現在は言い伝えが少しある程度でしたが、おおよその場所が分かりました。
福岡市と北九州の間の海岸部に位置する津屋崎町の最奥に行くと渡半島に渡る橋があります。

入江にかかる橋を渡って右に曲がり、小山を廻り込むと
牧の入口と「牧口大明神」の祠があるはずなのですが、道が未舗装になります。
バックで戻るかもしれない…と思うと、さっさとあきらめました。
反対の海岸線を廻って見ましたが、やはり途中から未舗装。
ぶらぶらの精神にのっとり、あえなく敗退。
今回は航空写真を使ってアプローチしましょ。

渡半島は現在は左の方に橋が出来ましたが、かつては「牧の入り口」が唯一の進入口でした。
「旧入り海」と書いているように、現在の田畑や市街地は海の中です。
昔はここが良港だったのがよく分かります。
馬を飼うのにはこのような島や半島が最適だったそうです。
なるほど、馬を走らせるには広い敷地が必要だし、
だからといって全部を柵では囲めないので、半島というのは最高の場所なのですね。
そう言えば、野生馬が現存する宮崎県の都井岬も「岬」です。
牧の入り口から入ると、その奥には牧の大明神の祠があります。
牧の規模などは全く不明ですが、地形を見ると、現在恋の浦ガーデンになっているあたりは
平地に近かった可能性があり、その部分を牧跡と想定しました。
地元の言い伝えをまとめると、
昔、大陸から京泊(牧の大明神ちかく)に馬を陸揚げして、渡の山に放牧して調教し、日本国内に積み出した。馬出、馬込という地名があった。
名馬・スルスミもこの牧の産。
毛利の家臣が朝鮮出兵途上に、渡・楯崎の馬牧を見物した。
福岡藩主・黒田忠之は大島に藩営の馬牧設営をするために、津屋崎に補助牧場設営を命じた。
柳川藩の馬術の名人たちが渡の牧で馬の修練をした。
俵瀬だけが出入り口だったので、馬の管理がしやすかった。
高風呂山はどの牧草は塩分を含んでいて、牛馬がよく育った。
(参考 福津郷土史会 Hp)
このように具体的なものが伝わっていました。
さて、「神代に放ち給うた馬の牧跡」の「神代」については、いったいいつの時代の話かは分かりません。
しかし仲哀天皇が新宮町で馬事訓練をしたので、
距離的に近いこの牧が当時から存在した可能性を秘めています。
平安から鎌倉にかけての渡の牧についての論文があるのを文化財課の方から教えていただきました。
これも面白かったので、紹介したいと思います。
「宗像大宮司と日宋貿易
―筑前国宗像唐坊・小呂島・高田牧―」 服部秀雄
この論文では日宋貿易の時代の文献を考証し、全体を見通してから
「高田牧」を見つけ出していく手法を取っていて、
「高田牧」とは福津から岡垣に至る各地の牧の総称であり、
この「渡の牧」はその中でも最大規模で中心地だという事を突き止めてありました。
その中からいくつか抜き出してみます。(一部改変)
高田牧は筑前国最重要の牧である。馬と牛を飼っていた。
牧司がいて、壱岐や対馬の国司を歴任した人物がなっていた。宗像姓が多い。
高田牧は太宰府の管轄下にあった。太宰府の根幹をなす軍事施設であった。
牧は軍事の根幹である。多数の軍馬確保が不可欠で、太宰府牧の側面が強い高田牧も、武門が掌握したであろう。
ここから宋からの薬品、豹の皮、青瑠璃瓶、壺、唐綾などの珍重品が京都に贈られた。
高田牧から京都に馬が運ばれる途上、京都周辺で最上の馬を専門に盗む「最上馬盗」という盗賊がいた。
馬の飼育は春に草山を焼くことに始まり、オオカミなどの天敵、あるいは盗賊から牛馬を守るため、堀や柵を作り維持しながら、頭数を減ずることなく子牛・子馬を育成していく仕事である。
牧子一人あたり50頭のほかに2歳以下の子馬がいた。成馬50頭というが、5歳まで飼育するとして、3,4,5歳で50頭なら、子馬を含め70頭以上の飼育である。高田牧全体では1300頭の成牛馬がいた。甲斐一国の牧よりも大きな規模であった。
現役軍馬を引退した種馬用荒馬を放し、交配による荒馬化、大型化をはかったものであろう。
天正20年(1592年)。毛利勢がわざわざ一日逗留して手光に陣を取り、つやざきの馬牧を見物した。
日宋貿易の頃、中国や朝鮮半島からもたらされる薬や珍品の人気が絶大だったのが分かります。
当時、船は直接この渡に入港して、そこから珍品は各地に持って行かれました。
(博多では焼打ち事件があって、中国人たちは博多を避けるようになっていた。)
この津屋崎には唐坊という、チャイナタウンが生まれ、豪族の間でも中国人と日本人の混血がありました。
重量拠点である、この牧を掌握することは国の大事で、
地元の豪族たちもずいぶん繁栄しただろうと思われます。
この最大級の渡の牧は何故か途中から歴史から消えます。
ふと思い出したのですが、各地の神社誌を見ていると
牛馬の混濁病が発生して、さかんにスサノオ命が祀られた記事があります。
最近の口蹄疫などを考えると、病気が発生して消滅した可能性も候補に挙げていいのかも知れません。

(木曽馬 北九州市立総合農事センター 「西日本新聞」より)
さて、馬と言えばサラブレットを想像しますが、それはテレビや映画に洗脳されただけの事で、
馬の大きさはもちろん例の可愛いサイズの方です。在来種はこんなに小さくて性格がおだやかです。
武士がこれに乗るのはちょっと似合わないですね。それで、スルスミのような荒馬が望まれたのでしょう。

(王塚古墳 装飾古墳館にて)
埴輪を見ても、やはり可愛らしいです。
こんな在来種が野山を駆け巡ったのですね。いつかこの美しい渡半島を歩いて散策したいです。
福津市の文化財課の方には大変お世話になりました。ありがとうございます。
地図 渡半島
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時代が下ると記録も多いし具体的なイメージができますね。
私には分からないのですが、埴輪が作られた時代には、たくさんの人々が馬に乗って戦闘とかしてたのか、それとも儀式的に馬を用いていたのか?
多分大将みたいな人は馬に乗っていて、その他は徒歩だったのだと思うのですが、、、。戦国時代と同様に。
普通の兵士は徒歩だと私も思います。
日本一のこの渡の牧の数が1300匹という具体的な数字が出たのは、当時の貴重さがよく分かります。









