2011年 06月 12日
縫殿神社・宗像の神に引き留められた呉の織り姫
縫殿神社
ぬいどのじんじゃ
福岡県福津市奴山
宗像の神に引き留められた呉の織り姫
福津市には海に並行して北九州へ向かう495号線があります。
快適な田園風景の中のドライブコースで、縫殿神社へ向かうには
「練原」という信号から右折すると、まもなく左手に宝蓮寺の案内板が見えます。
そこを左折して、一軒目で右折、また一軒目で左折すると道は上り坂になり、
10mほどで下のような道に出ます。

竹林の道を進むとまもなく、神社に出ます。

鳥居が見えました!

急な石段の向こうに、拝殿が見えます。

山の斜面を切り開いた境内の中に鎮まっていました。

参拝を済ませて神殿を見ると、かなり凝った造りです。
ここにも柱をくわえる鬼面がありましたよ。
境内の左手にはさらに石段がありました。

上って行くと三つの祠が並んでいました。
何を祀ってあるのかは分かりません。御神体は石でした。
さあ、ここは「縫殿」という名前のとおり、縫姫の伝承が残る神社です。
入り口にあった説明板を読んでみます。
縫殿神社 ぬいどの
応神天皇の頃に、呉の国(今の中国)から兄媛(えひめ)、弟媛(おとひめ)、呉織(くれはとり)、穴織(あなはとり)の四名の姫が織物、縫物の進んだ技術を日本に伝える為に招かれました。この中の兄媛は宗像神の求めでこの地に残り、中国の高度な染色、機織り、裁縫の技術を広めたと言われています。
祭神はこの4名の姫と応神天皇、神功皇后、大歳神で、この神社は日本最初の裁縫の神様であり、この地はデザイン、ファッションの発祥の地と言えます。
この神社には、永享12年(1440年)につくられた梵鐘(県指定有形文化財、宗像大社神宝館に展示)、南北朝時代の大般若経600巻や江戸時中期ごろの三十六歌仙絵扁額をはじめとする絵馬があります。
この山の中腹にひっそりと鎮まる姫宮は、かつて呉から招かれた
四人の機織り姫が祀られていました。
遠い中国から海を渡ってきた娘たち四人のうち一人だけが宗像神の求めで残りました。
ここを訪れて、四人とも祀られているのを知って、
昔の人が「一人ではさびしかろう」と四人一緒に祀ってくれた心遣いを知りました。
さて、このお話、どこかで聞いたことがあると思う人もいる事でしょう。
そう。日本書紀に書かれている話と対応しているのです。訳しましょう。
応神天皇37年の春2月1日に、天皇は阿知使主(あちのおみ)と都加使主(つかおみ)を呉に遣わして、縫工女(きぬぬいひめ)を求めた。
阿知使主たちは高句麗国に渡って、呉に行こうと考えた。高句麗に着いたが、その先の道は分からない。道案内の者を高句麗に頼んだ。高句麗の王はクレハ、クレシの二人を道案内として与えたお蔭で、呉に行く事が出来た。
呉の王は工女兄媛・弟媛、呉織(くれはとり)、穴織(あなはとり)の四人の婦女を倭国に与えた。
応神天皇41年春2月15日に天皇は明宮で崩御された。御年110歳。
この月に阿知使主たちは呉から筑紫に着いた。この時、宗像大神は工女たちを欲しいと言った。そこで兄媛(えひめ)を献上した。これが今筑紫国にいる御使君(みつかいのきみ)の祖である。
残りの三人を連れて津の国に行って、武庫(むこ)に着くと、天皇はすでに崩御されていた。間に合わなかった。そこで次のオオサザキ尊に献上した。三人の末裔は今の呉の衣縫(くれのきぬぬい)・蚊屋の衣縫である。
応神天皇は神功皇后の子供でしたね。妃が大勢います。
そんな妃たちに、中国風の美しい衣裳を着せてあげたかったのでしょうか。
この時代は渡来人たちがどんどんやって来ていて、
身分の高い人たちは、それなりに美しく豪華な衣裳を着ていたはず。
男たちだって、それに負けない衣裳を欲したことでしょう。
応神天皇は織物の技術者を中国に求め、派遣された阿知使主は
四人の織り姫を連れて帰って来ました。
船は那国かこの津屋崎で上陸して、この先は危険な玄界灘ルートを避けて、
陸路を採ったのでしょうか。
いずれにしろ阿知使主はこの宗像の君に挨拶をしたと思われます。
「宗像の神」というのは「宗像の君」の事だと思われます。
その時、ここに一人でもいいから織り姫を残してほしいと求められた為に、
断りきれずに兄媛を残しました。
織り姫たちは四人一緒なら、遠い異国でもきっとやっていけると思っていたのに、
一人だけが残るのですから、それぞれが身を切られる思いがした事でしょう。
それでも残った兄媛は、真剣に学ぼうとする倭国の織り姫たちに囲まれて、
きっと充実した生涯を送った事でしょう。
御使君という末裔がいるので、結婚もしたのが分かります。
織物の技術はトップシークレットに近かったはず。
この神社がある場所は縫殿が建っていた場所かな、と思ったのですが、
もともと南東の方の縫殿田という田畑の傍に社があったのが、
天明2年に火災にあって、翌年にここに遷座したという事です。
ですから、縫殿の屋敷は平地にあったと思われます。
宗像の里と織物
この神社にはもう一つ伝承があります。
神功皇后が新羅を攻撃する時、舟の帆を縫った神である。
これは時代的には兄媛たちが来る前の話になります。
隣の宗像市の織幡神社には、こんな伝承がありました。
神功皇后が三韓征伐をする時、紅白の二旈(りゅう)の旗を織り、宗像大菩薩のお手長(長い旗竿?)に取り付けられたので、織幡の名がある。
旗の起源が書かれています。
三韓攻撃の時に長い竿に紅白の旗をつけたのが旗(幡)の始まり で、
それを織った場所は福津市の奴山の縫殿だという訳です。
これらから推測すると、福津市から宗像市にかけては、当時、
先進の織物文化があった事が伺えます。
だから、その数十年後に織り姫たちが通りかかると、
新しい技術の価値を知っていた宗像の君は
どうしても一人でも残してほしいと譲らなかった訳です。
兄媛は自ら「それでは私が残ります」と言ったのでしょうか。
都に行った三人も活躍して、没後は神として祀られているそうです。
そんな宗像の君の里の織物文化は遠く名を轟かせて、
小郡市の媛社(ひめこそ)神社に話が続いて行くのだと思います。
(媛社神社のお話はしばらくしてUPしますね。)
古墳の上の縫殿宮
さて、この近くには国指定の新原・奴山古墳群があるのですが、
その一番大きい前方後円墳に縫殿社が祀られていると聞いて行ってみました。

奴山(ぬやま)22号墳です。県道459号線からも見えます。
この前方後円墳は全長80m級。新原・奴山古墳群の中で最大級です。
その古墳の前に見える白い鳥居の扁額には「縫殿宮」とあり、
大正時代の刻印がありました。

くずれかけた石段を30段ほど上ると、森になろうとする境内の奥に祠がありました。
祠の下には「縫殿宮」の扁額が置かれています。

そして祠の御神体にも「縫殿宮」と書かれていました。
すると、兄媛はここに埋葬されたのでしょうか。
いえいえ、こればかりは発掘してみないと答えは出ません。
それでも兄媛が奴山の人々にどれほど慕われたのか、よく分かります。
地図 縫殿神社 奴山22号古墳 織幡神社
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なのですね。
奴山(ぬやま)22号墳の「縫殿宮」って、兄媛のお墓っぽい感じ!!
あまり思い込むのもよくないけど、、、。
兄媛が祀られている社がちゃんと残っているのは嬉しいですね。
近畿と筑紫にそれぞれ祭られているのですから、織り姫の存在って大きかったんですね。建物とか、染料の材料集めとか、絹や麻を染めたり織ったりと、邑がずいぶん活気づいたことでしょう。
ブログ上でも、ようやく一緒になりましたね。
(=゚ω゚)ノ
この縫殿神社は「三韓討伐時に皇后が帆を作らせた」伝承ですが
なぜガイドブックの5番目に紹介されたのでしょうか??
「新羅戦の準備」の章なのかなと思いました
すみませぬ
そうですね、準備ではありますが、造船や武器調達は仲哀天皇が忌宮神社で天下を治めていた時だと解釈したからです。
48艘の船の帆だけでも、織り上げるには数年はかかったと思います。軍服や旗なども数年単位かと。
下巻の「新羅戦の準備」の時には、最終的な人的な詰めの時期で、
勝利祈願や、船頭や水手(かこ・水兵)などとなると考えました。
神功皇后が主力になる住吉族や安曇族などに対して、戦後の褒賞などを契約する時期を「新羅戦の準備」としました。
ちょっとファンタジーな伝承部分を中心に見てるので
時代考証になるとわからなくなってしまいます
(≧ڡ≦*)
そうですね、既に隣国と戦う準備で九州入りしたのですね
でもキャラ上「ファンタジー丸呑み」設定で頑張りますw
(`・ω・´)ゞ
楽しそうですね^^








