2011年 08月 03日
「黄泉の道」の古墳巡り(3)三国の鼻1号墳
小郡「黄泉の道」の古墳巡り(3)
三国の鼻1号墳
福岡県小郡市
三国の鼻1号墳は井の浦古墳の丘陵から水田の方に下って行く方向にあるようです。
それらしき森を見つけたのですが、墳丘が見当たりません。

こうして写真で見ても、フラットですね。分かれ道を右の方に下りてみました。

おおお。花立山が見える!あの隼鷹神社から見えていた花立山です。
この視野いっぱいの水田がかつては川でした。

私が歩いてきた道を振り返るとほら。かつては汀(みぎわ)があったような自然のカーブ。
ここは「津古」(つこ)なんです。
老松神社の伝承に、神功皇后は「津古」から船に乗ったと書いてありました。

この地図は再掲ですが、中央上部に「●津古」がありますね。
今私はこの●の所にいます。
その南に老松神社「神宮皇后行在所」があります。
津古に立つと、花立山の向こう側に老松神社があるのが分かります。
ここは1800年も変わらぬ風景を残していました。
そう、稲の緑が川の水に変わるだけ。
神功皇后と竹内宿禰はこの近くから船に乗って移動した訳です。
もう、誰も彼もが忘れてしまった話です。
そうそう、古墳を探してたんだ。
通りがかりの人に尋ねると古墳の案内板が上の道にあったと教えてくれました。
そして、なんとその人はこのブログの愛読者の方でした。
(驚き!こんな所で、出会うなんて!)
不思議な巡り合わせに感動しながら、教えられた方向へ。

行くと浄化センターの建物があって、門が閉まっています。
案内板はあったけど、古墳は消滅していました。
絵を見ると、きれいな前方後円墳だなあ。岬の一番いい所にあったんだ。
その事情を案内板で見てみましょう。
三国の鼻遺跡(みくにのはな)
三国の鼻遺跡は、現在の宝満川浄化センターから三国が丘周辺に広がっていました。遺跡は弥生時代と古墳時代を中心とする複合遺跡で、中でも注目されるのは弥生時代後期の環濠集落と古墳時代前期の前方後円墳です。
環濠集落は、全長356mの巨大な環濠と竪穴住居群で構成されています。環濠は最大幅4.5m、深さ2.3mで、34軒の竪穴住居群を守るように取り囲んでいます。環濠や竪穴住居の内部からは大量の土器や石器が見つかりました。
前方後円墳「三国の鼻1号墳」は全長66mの市内最大の古墳で、現在の団地内にありました。造られたのは4世紀中ごろで、「津古生掛古墳」から始まる古墳時代前期の津古古墳群の最後を飾るにふさわしい巨大古墳です。
この古墳からは、二重口縁壺といわれる祭祀用の土器が焼く120個も出土したことが特筆されます。発掘調査により、この壺は古墳の墳丘上にきれいに配置されていたことが分かりました。その他にも管玉と鉄剣、そして珠文鏡といわれる鏡が見つかっています。
ここは背振山系から延びて来た丘陵の先端が宝満川沿いの沖積平野に突き出す通称「三国の鼻」と呼ばれることころで、筑紫平野を見渡せる素晴らしく見晴らしの良いところです。弥生時代や古墳時代の人々にとっても、非常に重要な場所だったことが分かります。 平成22年11月 小郡市教育委員会
福岡にも壺がずらりと並べられた古墳があったとは。初めての御対面です。
4世紀中ごろの造営で津古古墳群の最後を飾ったものです。
イラストを見ると立地が素晴らしい。
実際にこのイラストの左側の方に行くと、車を止めて写真を撮るには
危険だったのですが、大変見晴らしが良かったです。
古墳の内部主体は後円部に大小二つの割竹形木棺、
前方部には一基の小型割竹形木棺が埋地されていました。
この「外形と割竹形木棺と二重口縁の壺」が畿内型古墳の葬礼そのものだそうです。
こんな見晴らしのいい所に造るのも、畿内型らしいですね。
ふと思ったんです。
この岬は防衛上大事な拠点で、ここに必要なのは見晴らし台なんだ。
そんな所に墓を造ってしまうんだから、平和になったんだろうか。
国防を考えない被葬者の示威行為に過ぎないのか。
弥生時代から環濠を営んで身を守った人たちが
この場所に古墳を造営したとは考えにくい。
また、ここで起こった仲哀軍や皇后軍対羽白熊鷲や田油津姫などの戦いとは
どう結びつけたらいいのだろう。
小郡市誌を見てまとめてみました。
宝満川の中流域の中心地は現在の小郡市域で、旧三原郡だった。邪馬台国時代は弥生時代の後期後半に当たるが、そのころの遺跡は小郡市の各地に分布する。
この三国の鼻遺跡は集落が標高45m前後の丘陵の頂上部にあって、眼下に平地を見下ろせる眺望のきくところに立地している。
南西側の平らな場所に環濠が巡っていて、内部に34棟の竪穴式住居が営まれていた。
環濠は少しずつ変化して行った。
おそらく当時の水田面からの比高が20mという立地は、普通の農耕村落というよりも、いわゆる高地性の防御村落として、周辺を監視し、その動向を地域社会に通信・伝達する高地性集落であったと考える。
なるほど、環濠集落の中の家がわずか34棟とは少ないなと思ったけど、
やはりこの岬から周辺を監視する砦のような所だったんですね。
ここで得た情報は首都に当たる小郡・大板井遺跡に送られます。
邪馬台国時代の御原国と吉野ヶ里遺跡の場所を描いてみました。

御原国の広さは分かりません。
三国の鼻から首都の小郡までをとりあえずエリアとして描いています。
弥生時代には監視所だった三国の鼻に、畿内型古墳が造られた訳です。
「畿内の支配権が及んだことを示すものだ!」
という説もあるのですが、
「これらの前方後円墳を、久留米、八女方面に南下する前の
筑紫の君の奥津城と考える森貞次郎の説」もありました。
(「日本の古代遺跡 34 福岡県」保育社)
研究者によってずいぶん位置づけが違うんですね。
これまた興味深い古墳になりました。
出土物の写真は「古代体験館おごおり」のサイトにて。
http://www.kodaitaiken-ogori.jp/historic_map/map01.htm
このページに入ったら、「収蔵資料検索 ⇒ 考古遺物 ⇒ 出土遺跡の▼をクリック ⇒ 三国の鼻遺跡1 ⇒ 入力項目から検索」
(文字入力は上手くいかないので、「▼」を利用すると、いろんな写真が見られますよ。)

①津古1号墳
②津古生掛古墳
③三国の鼻1号墳
④井の浦1号墳
⑤横隈山古墳
それでは②の生掛古墳に行きましょう。
地図 三国の鼻 伊の浦古墳 隼鷹神社
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那珂川町の日本最古の用水路と謂われる裂田の溝も、神功皇后の伝説でしたね。そして『背振山』というキーワードが、ここにも。
神功皇后と竹内宿禰の歴史から、目が離せませんです!!
これから先も楽しみです。 (^-^)
津古生掛古墳は、とりあえず公園がありますが、古墳の上に民家が建っているので、場所は伏せられているようです。公園を見つけるのも難しいので、地元の方に「生掛公園」と尋ねると、皆さんご存知です。
ちょっと忙しくなって、記事を書く時間が取れません。参考資料として、小郡市誌がボリュームがあってお勧めです。
私の記事がお役に立てて嬉しいです。
古代祭祀線は、確かに九州には多くて、偶然発見して線を引くけど、全容が掴めなくて先に進めない方が何人もいます。そのラインと重なるのかも知れません。
すごい情報ですね。
どのようにしたらいいですか?








