2011年 08月 02日
「黄泉の道」の古墳巡り(4)津古生掛古墳
小郡「黄泉の道」の古墳巡り(4)
津古生掛古墳
つこしょうがけこふん
福岡県小郡市みくにが丘
さて、夢に出て来たのがこの津古生掛古墳。
すでに完全消滅しているのは分かってる。
だから、何で夢に出て来たのか、確かめに行くだけ。
何が待っているのだろうか。
現場へ行く道は地図では読めない道でした。
大通りは車がスピードを出すような所で、
そこから脇道が並行して走っていたので、そちらに行って見ました。
左の団地の中なのだから、取り敢えず左へ左へと、
地図と見比べながら曲がってみると、分からなくなってしまいました。
古墳探しは難しい。消滅している古墳をどうやって探すのだ。
T字の手前で困っていると、目の前でワンちゃんがウンチをし始めました。
道路の真ん中!終わるのを待っていると、飼い主さんが恐縮しています。
こんなハプニングこそ私の味方にしなきゃ。
車まで謝りにこられる飼い主さんに、いいえ気にしないで下さい、と
ニコニコしながら、これ幸いと古墳を尋ねるのでありました。
地元の人でも分かりませんでした。
でも、近くで草取りをしている人にまで尋ねてくれました。
ふふふ。これが狙い。
そして生掛公園というのがあって、そこに案内版がある事が判明。
曲がり角をしっかりと教えて貰って、着く事が出来ました。
聞かないと分からなかったなあ。
そしてこれが生掛公園の一部。
けっこう広いんですが、他のアングルは人家ばかりになってしまうので、遠慮しました。
現場の案内版です。他に撮った写真はありません…。(さみしい。)
書き写します。
津古生掛古墳津古生掛古墳は、現在の「三国が丘団地」の生掛公園付近にありました。この古墳は昭和60年の団地造成に伴う発掘調査によって発見され、三国丘陵に存在する古墳時代前期(3世紀後半~4世紀後半)に属する津古古墳群の一つです。
調査の結果、東西方向に全長33m(後円部径29m、前方部長さ4m)で、後円部が高く、前方部が低い前方後円形になることがわかりました。
なになに。3世紀後半の古墳ですって!
となると、卑弥呼が死んだすぐ後の時代ではないの。
神功皇后ももう亡くなってる。
でも、4世紀後半も含まれるとなると、倭国が高句麗と戦ったりした時代。
倭国が高句麗と戦ったなんて、全く知らなかった。
高句麗の好太王碑文に書いてある話かな?
まいったなあ。分からない事ばかり。
ま、そこは置いといて、つづきを読もう。
古墳の周辺には方形周溝墓や土壙墓などが多数造られており、この地方の有力者とその家族や近親者たちを埋葬した墓と考えられています。
出土品には、鏡のほか鉄剣、鉄鏃(てつぞくーやじり)などの武器、ガラス玉などの装飾品など多くの副葬品(お供え物)が見つかりました。
鏡は中国で作られ、日本に持ち込まれたと考えられる方格規矩鳥文鏡です。
また銅の部分が中空の鶏形二重口縁壺形土器が3個体分見つかりました。その表情の豊かさや写実的な描写から考古学の世界だけでなく、美術史的にも注目されています。ほかの二重口縁壺などと共に、祭祀に使用されたものと考えられます。
これらの出土品から3世紀の終わり頃に造られたと考えられ、九州でも最古級の前方後円墳であることが分かりました。
なんだ、結論は3世紀の終わりなんだ。
卑弥呼が亡くなって、再び戦乱が起こった頃の人だ。
この古墳は未盗掘だった?全く分からない。
3世紀の終わりと推定された要因は鏡と二重口縁壺の形なんだろうか。
副葬品があるなら写真が見たい。
家の中の図録を探すと結構あちこちで紹介されていました。
これがニワトリ形二重口縁壺。どこかで見た事があるニワトリですね~。
まさか、小郡市で出土していたとは。
高さ約30センチで、この写真は複製品です。これが3個分出土しました。
しかも底には穴が開けてあるんですって。
二重口縁壺というのが、どうやらポイントらしいので、
奈良の箸墓古墳の二重口縁壺形埴輪(45センチ)を見てみると、こんな形。
箸墓古墳は3世紀の中頃。ニワトリより少し古い。
前回の三国の鼻1号墳に飾られた壺とそっくりですね。
二重口縁って、なかなか凝ったデザインなんだ。
この津古生掛古墳から出た土器は地元のものがなくて、
ほとんどが畿内や中国地方のものがばかりだったんですって。
だから被葬者は畿内と関係が深い人だそうです。
これが古墳の形。前方後円墳でも帆立貝のタイプに近いですね。
木棺が直葬してあったそうです。木棺なんだ~。
出土した当時は「日本最古の前方後円墳」と大騒ぎになったんですって。
今では九州から関東にかけて広く発見されているそうです。
これが出土した鏡。方格規矩鳥文鏡。中の方に正方形が描いてあるんですね。
これの年代の決め方が書いてありました。
京都府の大田5号墳から出た鏡と似ていて、
そちらの方の鏡には魏の年号が書かれていたんですって。
魏の「青龍3年」は西暦235年。
だから、津古生掛古墳の鏡も同時期に中国で作られたたと考えられるんですって。
年代が具体的に出たなんてすごいな。
1700年以上も前の時代って、何と優れた技術の時代なんだ~。
う~む。恐るべし。青銅器文化。
以上の資料は「邪馬台国―九州と近畿」(大阪府立弥生文化博物館図録44)
の写真と進村氏の文を参考にしました。
現在、住宅が建ち並び、古墳そのものを見ることはできなくなりましたが、古墳時代前期の墳墓としての歴史的価値は高く、当地域のみならず全国的にも著名な遺跡となっています。 平成21年2月 小郡市教育委員会
高度成長期に発見された古墳はこうして多くのものが消滅してしまったけど、
これが平成時代に見つかったものなら、きっと保存されたんでしょうね。
調べて行くと重要な古墳だったのがよく分かりました。
地図 生掛公園
①津古1号墳
②津古生掛古墳
③三国の鼻1号墳
④井の浦1号墳
⑤横隈山古墳
この土器や鏡について、訂正や補足説明がある方、是非コメントしてくださいね。
それではラストの津古1号墳へ。
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ニワトリ形二重口縁壺ってはじめてみたとおもいます。
そこに穴があいてるってことは、器台があったということだとおもいます。このニワトリ形二重口縁壺の底から、お酒でも滴り落ちてきたのかしら?
津古1号墳が調査され出土品が見れたら、良いですね。
消失した古墳探し、今思えば無謀。
底の穴、なるほど器台があった可能性大ですね。雨水が溜まらない配慮かなと思ったんですが、器台ならおしゃれだし。破片が出ているかも知れませんね。
未盗掘の古墳って見てみたいし、保存したいしで、悩ましいですね。