2011年 08月 19日
位登八幡神社・神功皇后は田原麿の城に半年も滞在した
位登八幡神社
いとうはちまんじんじゃ
福岡県田川市位登681
神功皇后は田原麿の城に半年も滞在した
ここにはナビに電話番号を入力して行きました。
何と簡単なのだ。古墳探しとは別世界。
県道458号沿いに一の鳥居があって、灯籠などがあります。
そこから鳥居の示す方向へ進むとすぐに神社に着きました。
福岡県神社誌を見ていたら
社記に曰く、
「太古から豊日別神社があるのに、神功皇后は三韓凱旋からこの神社に年の半分も滞在された。」
この書き方がおかしくて、どんな所か見に来ました。

真夏の昼下がり、緑陰を見てほっとしました。

おおお。狛獅子の何と大きいこと!ライオンそのもの。
なんだかギリシアの宮殿みたい。
行った事もないのにそんな感想を持ったのは、
この石段の幅広さとゆったりとした勾配のせいでした。
そして日向から緑濃き杜の中を通って

まぶしい本殿前に出ました。
茅の輪くぐりの祭りがあったばかりのようです。

迫力のある注連縄です。
参拝すると自分の姿を巨大な鏡が写し出します。
平原遺跡の巨大な八咫鏡を思い出しました。
手を合わせるのは自分自身へ、なのですね。
参拝を済ませると、頭上の巨木がさわさわと音を立てました。
気持ちがいいな。
神功皇后が半年もここに滞在した気持ちが分かる感じがしました。

周囲の森です。
さらに
欽明天皇31年誉田天皇(ほむた)の神霊が宇佐の里に降りられた。その翌年8月25日、この位登(いとう)の里に神瑞を顕わされた。時の官吏がその事を奏上した所、敏達帝3年に命令があって、八幡大神を位登宮に合わせて祭り、宮殿を新たに造った。
とあります。要約すると、
宇佐の神である誉田天皇がここに神のしるしを表わしたので、祀るようになったという事です。誉田天皇こそ神功皇后の皇子で、後の応神天皇です。
皇后は皇子が生まれてしばらくして移動を始めたので
この頃は皇子はハイハイを始めたでしょうか。可愛いさかりですね。
確かに子育てにはいい感じの場所です。
神社誌を書いた人が、
「なんでこんな所に半年もいたんだ。もっと由緒がある神社があるのに」、
と言っているのがおかしいんだけど、滞在した理由は
以前に記事にした川崎町の正八幡神社の伝承と組み合わせると見えて来ましたョ。
正八幡神社と言えば田原麿です。
仲哀天皇が遠賀川にやって来たのを聞いて馳せ参じた武将です。
天皇亡きあとも神功皇后と共に闘い、ここまでお伴をして帰国しています。
正八幡神社の方の伝承をまとめたものを再び書いてみます。
田原麿は近くの城山(もしくは位登郷の楠の森)に住んでこの地を治めていたが、神功皇后の三韓遠征の時に遠征軍に従って行って、(2年後には)戻ってきた。
それから600年以上経ってから、子孫の田麿に神託があった。それは応神天皇(誉田天皇)の神霊からのもので、
「私は宇佐八幡宮から本宮の大分八幡宮に行き通うたびに、母と田原麿の縁にちなんで、旅の途中に位登郷の楠の森で休息していたが、自分のために神殿を建ててくれたら、領民を守護しよう」
という内容だった。
そこで宮を建てて、のち1383年に現在地に遷宮した。
ここは田原麿の屋敷でした!
物資ともに豊かな屋敷で、共に戦ってきた戦友とも言える田原麿に
皇后は絶対の信頼を置いていたのがよく分かります。
だから安心してここで子育てして、心休まる時を過ごしました。
ここは宇佐八幡宮にずいぶん近い場所です。
誉田天皇(応神天皇)を八幡神として信奉する勢力が
こんな神霊降臨の神話をつくって、
地主神の神社を八幡神社に変えていくようすが具体的に分かる所でもありました。
そして、皇后がここに半年も居たのは、
豊浦宮へ帰るための旅程の手配の為だったろうと思いました。
何しろ遷都です。香椎宮へ向かう時も大人数だったので、海路は取れませんでした。
この帰り道はさらに大人数になりました。
兵糧、宿泊地の設定など、多くの準備が必要です。
ここまで来るために野営につぐ野営。
ここでゆっくりと休養して、次なる政治的課題への準備もした事でしょう。
一番の課題は、仲哀天皇の崩御の布告のタイミングです。
いとし子を皇位に付けなければならない。
仲哀天皇にはすでに皇位継承権のある皇子たちがいる。
彼らとの次なる戦いの準備も並行して行われたことでしょう。

帰り道、二の鳥居からの眺めです。

これは参道からの眺め。いいでしょ。空気も澄んでいます。
次は皇子が初めて立ったという生立神社へ行きましょう。
田原麿を祀る正八幡宮
http://lunabura.exblog.jp/16615951/
地図 位登神社 正八幡宮
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