2011年 09月 07日
弓頭神社(2)襲の姫と、水沼国や火の国の租になった皇子たち
弓頭神社(2)
襲の姫と、
水沼国や火の国の租になった皇子たち

この主祭神の国乳別皇子は日本書紀に名前が出ている人です。
まずは読んでみましょう。
次の妃、襲(そ)のタケ姫は国乳別(クニチワケ)の皇子と国背別(クニソワケ)の皇子(=ミヤヂワケ皇子)とトヨトワケの皇子を生みました。長男のクニチワケの皇子は水沼(みぬま)の別(わけ)の始祖です。次男のトヨトワケの皇子は火の国の別(わけ)の始祖です。
以上天皇の男女の御子は前後合わせて八十柱います。
しかし、ヤマトタケルの尊とワカタラシヒコの天皇とイホキイリビコの皇子以外の七十余人は皆、国郡に封じて、それぞれの国に行かせました。こうして今の世に諸国の別(わけ)というのは、この別王(わけのみこ)の末裔です。
景行天皇と言えば、田油津姫の祖の神夏磯姫が恭順した相手でした。
神夏磯姫以外の周囲の長たちはみな殺されてしまいました。
何とも恐ろしい天皇だ…。
その天皇に子供が各地に80人もいるのは
恭順のあかしに、クニの長たちが娘を差し出したからでしょうか。
この国乳別皇子の母、武姫は襲の姫です。
「襲」と言えば、すぐに「熊襲」を連想するのですが、
この場合は背振山の南の方にあった国ではないかと考えています。
この「背振山(せぶり)」の語源は「そほり」と言って、
「襲」とは「山に雪がまだらに残っているようす」で、
「北の方を指す」ようになり、
「ほり」とは「目もくらむほど真っ白に光輝く形容詞」だと、
眞鍋大覺氏が伝えています。
背振山脈はかつては雪深い所でした。
弓頭神社あたりから見ると、冬には北の方に真っ白に輝く峰々です。
この事から「襲」とはこの背振山系の南にあると考えるようになりました。
「襲ほり山」の南の「襲の国」で、
景行天皇はその姫を妃に迎えて数年滞在し、三人の子供が生まれ、
子供たちに水沼の国(福岡南部)と火の国(佐賀県~熊本県)に分けて
治めさせたと考えられます。
そして、それらに挟まれた国が「ヤマトの国」です。
これは新説でなくて、地名がそうだったのです。
そこに田油津姫がいる。
山門(やまと)郡の場所を確認しようと、新しい地図を見てびっくり!!
「山門郡」「大和町」など、「ヤマト」の地名が消えている!
えらいこっちゃ。
「三輪」や「出雲」も平成の合併で福岡から消えちゃいましたが、
こんな由緒ある地名がことごとく失われてショック。
みんな、ふるさとの歴史に興味が無くなって、
地名を失う事の重大さに不感症になったのかな。
古代は地名を付ける事が支配権を表すほどなのに。
ま、ぼやきはこれくらいにして
襲の武姫の子供達の支配するエリアを調べてみないと。

旧山門郡のエリアを「やまと」、旧三潴郡のエリアを「みぬま」としました。
火の国は佐賀~熊本でかなりアバウトに描いています。
こうして見ると、有明海沿岸は景行天皇の子供たちが治めた事になります。
天皇家や物部氏の支配が及ぶのが水色や緑のエリア。(吉野ヶ里は未調査)
そうすると、黄色で描いた熊鷲とか田油津姫は
かなり目障りに見えたのが分かって来ました。
景行天皇の西征後、落ち付いたかに見えた筑後川沿岸諸国も、
天皇が筑紫を離れると、国乳別皇子の代には、もう不穏な空気が流れました。
その後、下関の豊浦宮に遷宮した仲哀天皇も、
新羅の塵輪(じんりん)に襲われてからは、
もう一度、筑後平野をまとめ直す必要に迫られたのが地形から読み取れます。
国乳別皇子こそ、SOSの発信者の一人だったのかも。
「別(わけ)」というのは星を羅針盤にしてやって来た氏族たちの総称で、
のち、「別」のいる「湊(みなと)」も「わけ」と言うようになったと
眞鍋大覺氏は書いています。
襲の武姫も異国の氏族の湊のある国の姫だったのかも知れません。
子供たちに皆「別」の字がついています。
中東から、あるいは中国、韓国から異なる氏族が辿り着く有明海では、
まだまだ民族も言葉も違っている時代の話です。
「別」という港を目指して次々に後続隊が到着します。
常に緊張関係にあったと思われます。
この弓頭神社が平地にあるので、都としての地勢の要件を満たすのか、
疑問を持ったのですが、資料を見ると
ここ一帯は丘陵地帯で、古墳が50基近くあった事が分かりました。
度重なる氾濫による沖積と、圃場整備で平地になったのでした。
(つづく)

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