2011年 09月 16日
風浪宮(2)あずみー阿曇磯良ー安曇目
あずみー阿曇磯良ー安曇目
参拝を済ませて脇をみると、安曇の磯良がこんな所に!
で、でかい。
これは2mはあろうかという巨大な木彫です。まさか、ここで再会するとは。
志式神社の神楽で出会った時は120万歳の翁の姿、
高良大社では絵巻物の中で亀に乗って鞨鼓を打ち、
志賀海神社では、白い布で顔を隠していた。
ここでは中国の王様のような服装だけど、
着物をよく見ると、ワカメや亀なんかがちゃんとくっついている。
やっぱり海の底に住んでたんですね~。
フジツボや海藻がくっついて人前に出るのが恥ずかしくなった神です。
さて、何故彼がここにいるのか、説明板がありました。(読みやすく改変)
阿曇磯良丸の像
磯良丸は少童(わだつみ)命を祖神とする海洋族の酋長で、神功皇后が三韓に御親征の時、志賀島に召されて軍船を整え、海上指揮を仕え奉りて、無事大任を果たした航海熟達の海士(あま)であります。
太平記に見る磯良丸は龍宮に住んでいたが、神功皇后のお召しに従って大海亀にまたがって香椎が浜に出現し、皇后の三韓御親征に干珠満珠を捧げて従軍し、御助成をしたと述べられています。
この像は磯良丸が多年海底の宮に住んでいたので、身体中海藻や魚貝類がとりついていたという魁偉なる風貌を彫ったものであります。
因みに、阿曇史久 現宮司は直系の67代目を数えます。
これはもうこのブログではすっかりお馴染みの話ですね。
安曇族はエジプトあたりから船で来た海人族で、
外洋を通って倭国に渡る航海技術があったので、彼らを味方に付ける事は、
韓と倭国の間の制海権を手に入れるに等しい事だったと思われます。
安曇磯良は度重なる説得で、ついに
大型船を出して、諸船の水先案内をして倭国に勝利をもたらしました。
戦ってみると、三韓が無抵抗だった理由には、
この安曇族の存在は大きかったと思います。
凱旋して帰国する時に磯良の船は唐津ルートを採って、
長崎の方を廻って有明海に進入したと考えられます。
この時代は大善寺までが入り海だったので、
大型の海洋船でも、そのまま大善寺まで乗り付ける事ができました。
その時の話が大善寺玉垂宮のクスノキに船を係留したという話になっています。
この船には弓頭大将となった国乳別命も乗っていて、
送り届けるのも目的の一つだった事でしょう。
そして思い出すのは、志式神社に祀られた哀しい神々、稚武王と十域別王。
仲哀天皇の兄弟ということで、王位継承権を持つために排除されて、
それぞれ唐津や平戸に降ろされたと考えているのですが、
この磯良の船に乗っていたと想像しています。
稚武(わかたけ)王は唐津で降ろされ、十域別(ときわけ)王は平戸で降ろされました。
そして神功皇后は?
この風浪宮に上陸したとなると、ヤバくない?
そろそろ宇美八幡宮あたりで出産する頃。
有明海を通廻りする余裕も時間もないはずなのに。
しかし、この宮には神功皇后の名前が残っている。
HPで縁起を見ると、風浪宮に11月29日となっている。
出産は日本書紀では12月14日。ぎりぎりセーフか。
ただ、日本書紀の妊娠期間の計算が間違ってるので、
当てにならないのは、どこかの神社で計算した通り。
とりあえず、ここも帰着地候補の一つとして、先々考える事にしましょう。
ここまで来て分かった事は、神功皇后の移動について伝承が二つ混じっている事。
田油津姫を攻撃するために南下した時と、
安曇の磯良の外洋船に乗って北上した時。
筑後地方にはこの二つの伝承が混在しているので、よく見分けるべし。
この風浪宮に来て分かったのは田油津姫攻撃のルートではなかったという事。
収穫は大きかった。
安曇の磯良に戻ろう。
彼は国乳別命を送り届けることで、結果的に有明海の湊の支配権を手に入れた。
それを筑紫全体で見ると、彼は中央を流れていた「ありなれ川」(中つ川)の
北と南の河口の湊を押さえたことになる。
海を渡るための大型船は筑後川は通れない。
底の浅い小型舟を利用しないといけない。
大善寺玉垂宮に彼の船が置かれた事を考えると、
安曇の磯良たちは小型の船に乗り換えて、
そのまま北上して高良山に向かったと思われる。
小型舟を操縦するのは安曇族ではない。別の氏族だ。
干満の差が激しいので、太陽暦と陰暦を読み取れる船人たちだ。
遡上する時は満ち潮と帆を利用する。
小郡の端間(はたま)で、また船は小さくなる。
筑後川に特有の満ち引きに詳しい氏族がいた。
彼らを国栖(くにす)と言う。葛生(くず)とも書く。
日田では玖珠(くす)と言った。
安曇目(あずみめ)
イスケヨリ姫はその大久米の命が目の周りに入れ墨をして鋭い目に見えるのを見て、
変わってるなあと思って、歌にして、返事をしました。
「つばめ、せきれい、ちどり、ほおじろ。それにあなた。
どうしてそんなに縁取りのくっきりとした目なの。」
古事記より
阿曇=安曇=吾瓫=アントン
磯良=磯羅=イソラ
(つづく)
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染色体にとても詳しいんですね。私はまだ勉強していなくて、教えていただいて、なるほどと思うばかりです。
ただ、他に非公開でいただいたコメントで、観点が全く違っているのですが、同様の結論を書いて下さったかたがあります。
お尋ねの安曇目のソースは真鍋大覚氏の『儺の国の星』と『儺の国の星・拾遺』です。
アズミはアヅチと変化して行きます。
土星暦というものがあって、土星の周期がエジプトから日本までの航海時間とほぼ同じだそうです。
眞鍋氏は周との関わりを書いてありますが、まだ読解していません。
これらが書かれた本は絶版ですが、出版元の那珂川町に再版を依頼して、前向きに検討中だと返事をいただきました。
みんなと一緒に読解できたらと願っています。
「紀」について気になってしかたがないのです。
というのも、佐賀県に基肆郡とか基山などという地名があって、そこには竹内宿禰の母の伝承が関わってくるのです。
紀伊半島と、いったいどう繋がるのか、謎に思っています。徐福伝説でなら繋がるのですが。
香椎宮の天体観測については、香椎宮の口承を眞鍋氏が聞いた記録を見て、検証した訳ですが、「海洋民族なので天体観測をする」かというと、「そうでもあろうし、それ以外もあるだろう」という感じでしょうか。
那珂川町には中臣氏がいて、北の空を観測し、背振山を隔てて南の神崎(吉野ヶ里の近く)で、物部氏が南の空を観測していたそうです。(眞鍋氏)
非公開さんと私のキーワードはかなり重なりますね。
「奴国→狗奴国で紀伊半島」というのは熊本経由という事でしょうか?
霧島にも紀氏が?
非公開さんの方が詳しくて、目が点です。
ブログなどは書いてないのですか?
こちらから質問ばかりで<(_ _)>です。
系統だてて教えていただけたら幸いです(・.・;)
また楽しみにしています。 (^-^)
松野連の系図については以下のサイトが参考になるでしょうか。
http://adat.blog3.fc2.com/blog-date-20091215.html
http://www.geocities.jp/mb1527/N3-01yayoijidai.htm
すごく真摯に研究されているんですね。
ちょうど私が今書いている部分が詳しく書いてあり、ヒントがいっぱいありました。
(でも、長すぎて全部は読めない…。)
キ氏についての漠然としたものの方向性が見えて来ました。
ありがとうございます。 (^-^)
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?action=m&board=1835208&tid=6ebda32a6daba4ka4da4a4a4f&sid=1835208&mid=18184
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835208&tid=6ebda32a6daba4ka4da4a4a4f&sid=1835208&mid=4#under-deli