2011年 10月 05日
豊功神社・龍宮界に開かれた神域から満珠干珠の島が見える
豊功神社
とよことじんじゃ
山口県下関市長府宮崎町4-1
龍宮界に開かれた神域から満珠干珠の島が見える
下関市の瀬戸内海沿いを走るのは国道9号線。
その国道から海寄りに豊功神社はあります。
豊功(とよこと)神社は忌宮(いみのみや)神社の飛び地境内であり、
満珠干珠の島がよく見える所です。
満珠干珠と言えば、神功皇后の新羅攻撃の時に起こった津波のシンボルでした。
その名を持つ島が神功皇后の伝承とつながっているらしいのです。
どうなっているのでしょうか。
案内板を見つけて、信号のない道を右折。
袋小路になった所でキョロキョロすると、左の急坂の上に鳥居が見えました。
下から見ると、車で行けば突き当りそうで心配でしたが、
上ってみると右側に駐車場がありました。
いきなり海が見えます。でも参拝を済ませてからですね。
昭和44年の火災で社殿が焼失したために、平成13年1月に
御祭神ゆかりの津軽檜葉を用いた神明造りの御殿が完成しました。
御祭神は
左殿 櫛崎八幡大明神(開運発展の神様)
中殿 豊功大明神(文武両道の神様)
右殿 大国主大神(医薬縁結びの神様)
です。
中殿の豊功(とよこと)大明神とは毛利秀元の事です。
慶長7年(1602)に毛利秀元は当地に城を構えました。
その時、守護神を安芸の国から勧請したのが
現在は櫛崎八幡大明神に合祀されています。
櫛崎城=串崎城。そう、前回間違って行った関見台公園にあった城です。
一国一城の定めが出来て廃城された時に、城内の神社がこちらに合祀されたようです。
御祭神は神功皇后とは関係ありませんでした。
摂社がいくつもある中で、龍を彫っためずらしい石柱の宮がありました。
龍神社由来
豊浦の海は古来龍宮界との窓口になっている海域として知られています。
神功皇后様もこの海で住吉三神から潮満潮干、二宝珠を授かり大陸から凱旋しました。
それが眼前の満珠干珠の二神島です。
当社はその龍宮のお使いである龍の御神徳を仰ぎ、千年前より地元を始め、遠近の人々に奉斎されております。正に豊功神社境内は龍宮に向かって開かれた神域として龍神の水徳発揚の聖域と申せましょう。どうぞお参り下さい。
例祭日 7月5日
おお、ここに神功皇后の名前が出て来ました。
やはり新羅攻撃の時の干珠満珠と関連がありました。
ここでは住吉三神から授かった話になっています。
各地で伝承が変化するのはよくある事です。
それにしても、ここは龍宮へと開かれた神域とは!魅力的だなあ。
松の木の向こうに海が広がっていて島が見えます。
満珠干珠の二神島です。本当に島が二つあります。
どちらが満珠なのか説が分かれているそうですが、
津波の象徴だとすると、満ちて高くなるシンボルの三角の島が満珠で、
平たい方が引いて低くなるシンボルの干珠のように思えます。
考え方は人それぞれですね。
日本書紀から。
仲哀2年の春、1月11日、仲哀天皇は息長足姫(おきながたらしひめ)を皇后としました。
秋7月5日に皇后は豊浦の津に着きました。この日、皇后は如意の珠を海の中から手に入れました。
ここが神功皇后がやって来た豊浦の津がある町です。
到着した日に皇后は海の中から如意の珠を手に入れたんだ。
その如意の珠が満珠干珠の事だったのですね。
皇后ははるか福井の敦賀から嫁いで来たのでありました。
次回はいよいよ穴門豊浦宮へ。
地図 豊功神社 敦賀
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忌宮神社の存在を、つい最近知ったのですが
豊功神社は忌宮神社の”飛び地境内”だったのですね!
さらに調べたら・・
満珠・干珠の島々は、忌宮神社の飛び地境内だ・・ということも、分かりました。
そして、潮の満ち引きを司る、
「潮干珠、潮満珠」は、白鬚の神あるいは、猿田彦の神とも
関係があるようです。
(これは、以前、吉田先生から伺ったような気がします。。)
次回は、いよいよ穴門豊浦宮ですね!
これは、ますます、面白くなってきました!^^
ところで、ブログスキンの文字が突然巨大になってしまってます。皆さんにはどう見えるのでしょうか。
サイドバーの文字が大きくてレイアウトが崩れてるんです。 たまげました…。私のパソコンだけかな…。
私の記事の文字の大きさはフォントで強制的に2に設定していたので、変化がないけど、サイドバーなとは、ブログスキンの設計者が変更している可能性が出て来ました。
以前、サイズが1から2に、そっと変更されていた事があったのですが、今回はバグのようですね。
システムが大きく変更されている途中のようなので、エキサイトブログさんに尋ねてみます。
確認できて助かりました。 <(_ _)>
ありがとうございます。