2011年 10月 10日
忌宮神社(1)仲哀天皇が7年間天下を治めた豊浦宮
忌宮神社(1)
いみのみやじんじゃ
山口県下関市長府宮の内
仲哀天皇が7年間天下を治めた豊浦宮
仲哀天皇が7年間治世した豊浦宮がこの忌宮です。

日本書紀から。
足仲津彦(たらしなかつひこ)天皇(仲哀天皇)は日本武(やまとたける)尊の第二子である。
天皇の容姿は端正である。身長は170~80センチ。
稚足彦(わかたらしひこ)天皇(成務天皇)48年に皇太子となった。31歳だった。
叔父の稚足彦天皇には男の皇子がいなかったので、
足仲津彦が皇太子となったのである。
成務60年に成務天皇が崩御され、
仲哀元年1月11日に皇太子は天皇に即位した。
仲哀2年1月11日に息長足(おきながたらし)姫尊を皇后とした。
その前に、大中姫との間には麛坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子が生まれ、
また弟姫との間に誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)が生れていた。
2月6日に角鹿(つぬが)の行宮・ケヒ宮を建てて住んだ。
3月19日から南国を巡狩して徳勒津宮にいた時、熊襲がそむいて朝貢をしなかった。
天皇は熊襲を討とうと思って船で穴門に行幸した。
その時、使いを角鹿に送って皇后に
「すぐにその港を発ちたまえ。穴門で逢いましょう。」と伝えた。
6月10日に天皇は豊浦津に着いた。
7月5日に皇后も豊浦津に着いた。この日皇后は海の中から如意の珠を手に入れた。
9月に宮室を穴門に興した。これを穴門の豊浦宮という。
宮室とは天皇の宮殿の意味で、皇居の事です。
帯中日子(たらしなかつひこ)の天皇は穴門(あなど)の豊浦宮、
また筑紫の訶志比(かしひ)宮にましまして、天下を治めた。
これは古事記の仲哀天皇記の筆頭の一文です。
さあ、仲哀天皇の皇居あとです。

広大な境内の中心に一段高く神門があります。

菊の御紋が目に入ります。

拝殿前に出ました。堂々と風格がある宮です。
豊浦宮が忌宮神社となっているのは何故?
由緒書きから分かったことは
仲哀天皇が香椎宮で崩御されたのちここに神霊を祭った(豊浦宮)。
聖武天皇の御代に神功皇后を祀って「忌宮」(いみのみや)と称した。
さらに応神天皇を祀って「豊明宮」(とよあけのみや)と称した。
親子三人が並んでそれぞれ別殿に祀られていたが、中世時代に火災が起こったために、
合祀して一殿となり、総称して「忌宮」となった。
「忌」とは「斎」と同義語で、特に清浄にして神霊を奉斎する意味である。
ということでした。
もともと仲哀天皇の宮だったのが、合祀されていって、
火事に遭って再建された時には、神功皇后の忌宮が中心になってしまった訳ですね。
戦の途中で亡くなった天皇より、
戦勝の神として、また子安の神として女神様の方が人気が高かったのでしょうか。

広い境内の片隅に神功皇后お手植えの「さかまつ」がありました。
必勝祈願して逆さまに松を植えたものが枯れて残っています。
皇后はあちこちに杉や松を逆さまに植えてましたよね。
逆さまなのはどういう事なんだろ。
つがるはずないのにと、現代人のるなはいつも不思議に思うんですよ。

これは「宿祢の銀杏」(すくねのいちょう)。
当社の御祭神仲哀天皇、神功皇后、応神天皇に仕えた大臣竹内宿禰が植えたと伝えられる古木でその子孫が繁茂している。
銀杏は「生きた化石」ともいわれるほどに地球上で最も古くよりみられる植物で武内宿禰の長寿伝説と結びついている。
倒れんばかりの巨大な古木です。
竹内宿禰が植えた銀杏は織幡神社にもありました。
そこでは仲哀天皇をしのんで植えたと言います。
離れた所でこうして同じような伝承に出会うと、懐かしい気分になるので不思議です。
さて、日本書紀の「神功皇后」を『古事記の神々』に出していますが、
訳していてとても変だなと思う事がありました。
その謎がこの宮で解けたんです。
(つづく)
地図 忌宮
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新羅が攻めてきたときに新羅の将軍の首を打ち取って
その首を埋めた神社が紹介されていたんですが、
ルナさんご存知ないですか?
たしか迎え撃ったのが神宮皇后って言ってたような
気がするんですが
その後自分でもその神社を探してるんですが見つけることができずにこまってます。
それともう一つ質問ですが、竹内宿禰と筑紫の君は何か関係があるんですか?
ーこの忌宮神社の事ですよ!次回はそれについて書きます。将軍の名前は塵輪で、弓で射殺したのは仲哀天皇です。探してたんですね!
「竹内宿禰と筑紫の君は何か関係があるんですか?」
という質問の答えは私には分かりません。何か手掛かりがあったのですか?私の方では逍遥するうちに見つけたのが、
竹内宿禰の両親は佐賀県。
筑紫の君、磐井の子供たちが福津市や鞍手郡にもいた
という事です。そうそう、例の指摘のあった須多田の古墳の被葬者は磐井の子供らしいです。ネットで検索すると出て来ると思います。
竹内宿禰と筑紫の君磐井には数百年の隔たりがあるので、九州の勢力藩図は変わった事でしょう。
今のところ、この程度しか分かってません。
関西から和歌山のほうへ行っていたので
コメントが少々、遅れました。。^^;
・・・
忌宮神社は、最近、知ったのですが
福岡や、こちら山口でも、神功皇后をお祀りする社は、多くて
やはり、人気がありますよね~
忌宮神社の境内の様子を、はじめて写真で拝見したのですが、
ほんとに清々しいお宮です。近々、下関に行ったときに参拝してみようと思います。
次回の、日本書紀の「神功皇后」の謎が解けた記事が
楽しみです!^^
忌宮神社は想像以上に広くて驚きました。そして一枚目の写真を見ると分かりますが、香椎宮とそっくりな地形です。急斜面の土地にこれだけの平地を作ったのは、宮殿として設計する意図があったと思いました。
>この忌宮神社の事ですよ!
なるほど下関だったんですね。どうりで北九州市内で
調べても見つからないわけですね。
ずっと探していたのでこの3連休にも行ってみます。
>何か手掛かりがあったのですか?
いえ単純に織幡宮と宮路嶽神社が距離的に近いので
何か関係でもあるのかなと思いまして
>須多田の古墳の被葬者は磐井の子供らしいです。
ほんとですか!!ちょっと調べてみます。
自分的に古事記や日本書紀をきっちり勉強したいな~と思ってるんですが、
初心者でもわかりやすいお勧めの書籍などありませんか?
そうですね。竹内宿禰なら、香椎宮の武内屋敷から、玄海灘沿いに忌宮まで、何か所かありますね。
あと、久留米方面とか。もう少し実態がつかめたらいいなと思います。
古事記や日本書紀は私も現代語訳をやりつつ、今、忙しくて手が回らずに、更新が遅れてます。
利用しているのは岩波書店の本なんですが、入門書はどんな本がいいでしょうか。いろいろと出てるんでしょうね。
御自分で手に取って見て、すんなり立ち読み出来るようなものが、自分に合っているかも知れませんね。
何しろ、私も2年前まで、スサノオとイザナギが何度読んでも覚えられませんでした。ですから、これもまた解答なしです。(;一_一)
仲哀天皇の殯斂地は行きました!海の見える丘だったんですね。もう少ししたら記事にします。
地元では竹内宿禰の墓ではないかと!それは面白いですね。そんな地元の話はとても大事な情報だと思います。
>あまりにも数が多くてうんざりすることもあります。
全く同感です。福岡でも大正時代に300ほど採集されています。
今回は響灘が廻れなかったので、早くあの綺麗な海が見たいです。
もし、仲哀天皇、神功皇后の伝承をまとめた書籍などがありましたら教えてくださいませ。 (^-^)
それから、忌宮の正面は、日頼寺の仲哀天皇のお墓に向いているのです。これも地元の伝説。山口県では、山陽小野田市(とくに旧・楠町)、宇部市などにも伝説があります。伝説を集めているだけで、それを処理したり、考察したりする時間がありません。その意味では、あなたのことを感心しています。
私も、先入観を入れないために、まずは生の資料に取り組んでいます。だから、地方史や自費出版した伝説本に行き当たるとすごくうれしいです。やはり図書館通いからです…ね。
最近はコピーさせてくれない図書館もあったりして、遠方からなのにと涙を呑む事もあります。
ネットは最近は郷土史家の人たちがHPを作ってくれていて、大助かりです。
>忌宮の正面は、日頼寺の仲哀天皇のお墓に向いているのです。
確かに今地図をみたらそうですね。
下関は遺跡もよく残っていて、神社誌と組み合わせて調べるとかなり面白そうですね!
下関は蓋井島、吉見(船越、古宿、鴨島など)に伝説あり。船越は全国に伝説が多い。高貴な人が船でお越しになった。というのと、船を担いで山を越えた。下関は後者のほう。
造船は北九州市にも集中しているので、忌宮を中心として木材を調達して造船していたのが今の話でよく分かりました。
と言う事は、豊浦宮の時から外洋船を造っていて、新羅攻撃の準備が行われていたという事になりますね。
かなり切羽詰まっていたのが見えて来ました。
山辺の道は高校生の時に、修学旅行時に自由行動で行きました。あれが竹内街道ですか…。
ちょっとびっくり。
massyさんは、すると、全体の伝承をすでに網羅されているのですか?
とりあえず、地図に教えて頂いた地名をプロットしてみます。








