2011年 10月 05日
仲哀天皇殯斂地・隠した場所は太陽観測点だった?
仲哀天皇殯斂地
ちゅうあいてんのう・ひんれんち
山口県下関市長府侍町
隠した場所は太陽観測点だった?
筑紫で亡くなった仲哀天皇は竹内宿禰が船で豊浦宮まで送り届けました。
船の旅は最低4日かかりました。
「香椎宮(3)天皇の崩御をどうやって隠す?」で計算したのですが、
現地滞在は3日ほどでした。
この間に仲哀天皇の遺骸を仮埋葬しなくてはなりません。
どこでもいい訳ではない。
なぜなら仲哀天皇の妃の大中姫がいるからです。
彼女には皇位継承権のある皇子が二人います。
この時は佐波の方に避難しているはずで、
目撃はされなくても、いつ漏れるかは分からない。
そこで竹内宿禰が選んだモガリの場所は忌宮神社から500mの所でした。
地元のmassyさんの情報で、忌宮は殯斂地の方を向いていると
地元では噂していると聞いて地図を見るとまさにその通りでした。
天皇の崩御後から殯斂地に向かって建てられるようになったのかもと思いました。
なぜなら、海辺の宮は普通は海に向って建てられているからです。
では、まずは殯斂地に行きましょう。「殯斂地」とはモガリをする所です。
本葬をするまで仮に埋葬する所で、ここでは死を隠すために
火無しモガリだったと言います。
忌宮の正面から真南に参道がありますが、途中は屋敷が出来ているので迂回します。
かつてはまっすぐの参道があったと思われます。

日頼寺の右手に参道があります。

山道ですが石段がずっと続いています。

すぐに着きました。

拡大しました。小さなマウンドがあります。
小山のピークで、樹木が無ければ海が見える所です。

日頼寺の境内からその小山を撮って見ました。
右側から昇ったわけです。忌宮から500mなので徒歩なら15分。
毎日通って祭祀するのに適当な距離です。
うん。ここならバレない。
そして、航空写真を見ていてあれ?と思いました。
干珠島が真東にありました。しかも満珠島は重なっている。
もしかしたら島の頂が少し見えるかも。
それから豊功神社が御来光のビューポイントだった事を思い出しました。
豊功神社はかつて禁足地でした。きっと太陽観測をする所だからだと思いました。
暦の作成はトップシークレットなのです。
ここに住む神官は毎朝日の出の場所の変化を観測する事が出来ます。

(豊功神社の境内)
殯斂地の方は春分・秋分の日に干珠満珠から日が昇るのが見える所です。
やはり太陽観測点です。
ここも物部の神官だけが入る事が許される禁足地だったのです。
なるほど、それなら天皇の遺骸を埋葬しても誰も知ることは出来ない。
まいった。完璧だ!
それからついでに夏至や冬至はどこで観測するのだろうかと
23.4度付近を探したら、忌宮神社と三菱重工業長府苑あたりが出て来ました。

忌宮から冬至の日に干珠島を見ると、その右端から太陽が昇ります。
夏至の日に三菱重工の長府苑あたりから見ると干珠島の左端から昇ります。
長府苑には祠か盤座か太陽に関する古地名がある可能性があります。
あるいは豊功神社が夏至ラインの観測点かも知れません。
天皇の一番の仕事はこの太陽祭祀なので、
忌宮神社と満珠干珠の島は大切な関わりがありました。
神社からこの島々が見えなくなり、砂浜が無くなったのは、
神社にとっては祭祀の根源を奪われるような出来事だったでしょう。
人々がもっと歴史を知って景観の大切さが分かっていたら、
この神社からの景観も守られたかも知れません。
満珠干珠の島々は数m歩いただけで重なりが変わって見えます。
とても面白い光景です。
海からの太陽観測が出来る都は日本でもここだけじゃないかなあ?
それにしても恐るべし。竹内宿禰。
天皇にふさわしく、また秘密が守られる最高の場所を選ぶなんて。
といっても、るな探偵の仮説が合ってればの話ですが…。
地図 仲哀天皇殯斂地
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夏至ライン延長上の・・
「三菱重工の長府苑」には、何かがある!
まさに、恐るべし竹内宿禰。・・ですね!
古代の祭祀地が太陽観測や暦と密接に関連していた。。
というのが、驚きです。
その当時の観測機器とか、どのようなものを
使っていたのか考えてしまいますね。。^^;
ま、その後の古墳時代にはあれだけの古墳建築が出来るので測量技術はすでにあったのが分かります。
逆に、この測量していた物部氏が関西で暦が太陽暦中心のものに変化して失業したので、測量技術を活かして古墳設計者に転職したという説もあります。
きちんと説明できるほど勉強していないので、アバウトですみません。
エジプトでは紀元前にピラミッドの測量技術があったので、その人たちが流れて来た可能性だってゼロではないですよね。
>ヌタの門に着いて、船の上で食事をしました。その時、鯛が沢山船のそばに集まりました。
皇后は酒を鯛に注ぎました。すると鯛は酔っ払って浮かびました。それで海人(あま)は魚をたくさん獲って喜んで「聖王の与えられた魚だ」と言いました。
鯛について、興味深い事実があります。
昭和57年の4月か5月だったと思いますが、大阪付近(紀伊水道だったかもしれません)で、たくさんの鯛が浮かび上がったことがあります。これは雪解け水の冷たい水が海底に入り込んで、鯛がびっくりして海面に浮かび上がったものだそうです。いつもは海底にいる鯛は、浮かび上がると、口をぱくぱくさせるそうです。
ヌタの地名は福井県と言われてますが、鯛は時として、こういうことをすることがあるらしい。
私見ですが、皇后は気比の宮から海路、豊岡の付近に上陸し、由良川を使って、京都付近に出て、京田辺、から大阪に出たのではないかと考えてます。そのころの京都は湿地帯で、まだ都としての機能はありません。
「関峠(せきだお)の行き当たりを黒門という。此所に古は黒木の衡門ああり。此故に黒門と名づくるよし」
「黒木の衡門」というのは、皇居の御門のことで、昔は宮廷の門を黒木で作ったことを意味するものです。
忌宮神社の社領に「黒戸の御戸」と呼ばれる場所がありますが、これはその場所に豊浦宮が置かれたことに由来していると考えられます。
なお「黒戸」は「黒門」と同じ意味に解することができます。
以上、「下関の地名」に書かれていたことを、そのまま写しました。
迂闊なことは言えませんが、この辺りに社領があって、黒門があったのかもしれませんね。
ところで、三菱重工の長府苑って、お庭なんですか?グーグルではよく見えないのですが。
御存知でしたら教えてくださいませ。
長府苑については上記のURLに詳しく載っています。
なお長府庭園は、長府毛利藩の家老格、西運長(にしゆきなが)の屋敷跡です。
二カ所あります。
ひとつは彦島八幡宮にあります。もうひとつは、杉田の三菱アパートの裏の小高い山の上です。三菱3号アパートの裏に小さな公園があって、そこから鉄塔を目指してゆけば、途中にあります。早く言えば、ペトログラフです。
別のことなんですが、英彦山のことが出て来ませんね。英彦山にも天孫降臨の話があったと思ったんですが…。
英彦山でしょ。何度も登った山ですが、最近は行ってません。ついつい知らない所ばかり行くので、御無沙汰です。
英彦山を書き出したら一か月はかかりそうですね。
一部どこかで書いたんですが…。
馬見神社(うまみ)と多賀神社(たが)あたりに書いたと思います。
確かに天孫降臨の話があり、福岡の成人男性は必ず参拝したという特別な山です。
御無沙汰です(>_<)
山口の仲哀天皇伝承の昔話的ページを見つけたので貼らせてください。
http://www14.plala.or.jp/hotokuenhp/yamaguchidensetu/sizen/fukuhaimine.htm
マップ機能で『華山 下関』で検索すると『仲哀天皇殯葬所』の文字が近所に出てきて、クリックすれば祠の画像も見れますよ♪
これも伝承の一つとして置いてくださると嬉しいです。
秀麗な山、気になっていましたが、崋山というのですね。仲哀天皇の豊浦の都での崩御伝承。可能性がゼロではないですよね♪
仲哀天皇でさえ、ダミーを立てた可能性は常に頭に入れています。
ダミーで思い出したのですが、マップで華山から北東方面にずーっと移動すると、『豊田湖』がありその湖の北側に『安徳天皇西市御陵墓』が在ります。(某外国の透視能力者が卑弥呼の墓だとか言うてました。)
陵墓参考地だけでも断トツトップ(多分)な安徳天皇もどれが本物かどれもダミーか判らない位ですので、仲哀天皇はカワイイ方なのかも(爆)
しかし、豊浦に豊田『豊』かあ。
周防一の宮『玉祖神社』の祭神、玉祖命の別名もつく『豊玉』。
豊前、豊後の豊の国と何ら関係あるのかないのか。
私の頭の中ではまとまりそうでまとまらない妄想がぐるぐるしております(笑)
講演になかなか参加出来ませんが、陰ながら応援してます!
そうですか、あの能力者が卑弥呼の墓と言った所はその付近にあるんですね。
豊でしょ。仲哀天皇の時の木材の伐採地の分布を見ると、福岡は豊と重なっているので、往時は下関も入っているんじゃないかなと考えてますが。皇居も豊浦宮ですしね。







