住吉神社(1)長府一の宮・今なお荒御魂のおわす宮
住吉神社(1)
下関市一の宮住吉1-11-1
長府一の宮
今なお荒御魂のおわす宮
仲哀天皇殯斂地(ひんれんち)を後にして住吉神社に向かいました。
今回は古代の道の名残を残す山越えルートを選びました。
道は舗装はされているけど、細くてカーブだらけです。
ピークを越えて広い道と交差する所にようやく出たのですが、
信号のない斜め向こうに進むのは難しかったです。

山越えした後に見たからか、この宮の広大さに驚きました。

朱の色は旅人にとって安堵の色だと痛感します。

そして希望の色でした。

さらに高揚の色でした。

見上げれば、ここもまた海の民のしるし。

随神像はなんと鎌倉時代のもの。色も鮮やかです。
武士の活躍する時代に、このやわらかな表情が最高の美学だとすると、
鎌倉時代がいかに典雅な時代だったか、これまでの印象が覆ります。

拝殿です。

天文8年(1539)に毛利元就が寄進したものです。
その舞台は安芸の厳島神社の美しさに力強さを加えたものでした。
ここに立つと香椎宮を思い起こされずにはいられませんでした。
楼門から神殿までの距離感がよく似ていたのです。
それは歩いたものだけが分かる感覚でした。
そして、ここにはもちろん神功皇后が祀られていました。
ちょうど見えている奥の第四殿がその神殿です。

神殿は五つの屋根を持ち、それぞれに神々が祀られていました。
第一殿 住吉大神(底・中・表筒男命)の荒御魂
第二殿 応神天皇(八幡大神)
第三殿 武内宿禰命(高良明神)
第四殿 神功皇后(息長帯比売神)
第五殿 建御名方命(諏訪明神)
この神々はこの『ひもろぎ逍遥』でずっと共にあった神々でした。
私はいったい何度、この神々の名を書き綴ったことでしょう。
感動したのは細い道を辿って来たからだけではありませんでした。
住吉神の荒御魂だけでなく、すべてが祀られていた。
そして今なお生き生きと躍動してこの国を守っていた。
(つづく)
住吉神社・長府
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やっと、長門の国の住吉神社に来ましたね。
私は、初めてその境内の様子を拝見させていただきました。
・・なるほど、鮮やかな朱塗りの社殿が、旅人に安堵を与え
その心をを癒してくれるというのは、本当のようです。
わたしも、つい先日、出雲の日御碕神社で、まったく同じような経験を致しましたから。。^^
それにしても、
第一殿 住吉大神(底・中・表筒男命)の荒御魂
第二殿 応神天皇(八幡大神)
第三殿 武内宿禰命(高良明神)
第四殿 神功皇后(息長帯比売神)
・・だけでなく、
第五殿に 建御名方命(諏訪明神)がお祀りされているというのが
不思議な感じですね~
まだきちんと調べていないので書かなかったのですが。
私はここは事代主命かと思ったのが建御名方命なので意外でしたが、出雲族がずっと寄り添ってますよね。
宇美八幡宮は事代主命でしたが。
筑後平野でも出雲族がよく祭られていました。
気比から一緒だったんじゃかいかなと、想像してます。まだ想像の段階です。

掲示板みたいなのですね。なるほど。
作り方を勉強します。
ブログスキンは一時レイアウトが崩れたので、別のブログスキンに避難していました。あれは格調が高過ぎて落ち付かなかったです。四角の枠がなかったので読みづらくなったし、もとに戻れて安心してます。サイドバーも横が楽しいですね。
でも、思えば忌宮神社の間だけあの格調高いブログスキンだったのも、不思議な感じです。
住吉神社は全国に沢山あると思います。大阪の住吉大社とは深い関係があるんですよ。
元宮は現人神社(あらひと)と言って、福岡県の那珂川という所にあります。カテゴリの(あ)から入ると記事があるのでよかったら読んでみてください。
この現人神社から下関の住吉神社、大阪の住吉大社は神功皇后でつながってます。 (^-^)V
あらすじは『古事記の神々』の「神功皇后」に書いてます。よろしかったらこちらもどうぞ。
滋賀県にもつながっていますよ!

「住むのに良いところ」、すなわち住吉になったということだそうです。
皇后伝説とは関係ないのですが、伊勢神宮も同じ言い伝えがあります。各地を転々としたので、元伊勢神社というのが何カ所かあります。

山口県宇部市船木
大木森住吉神社(おおぎもりすみよしじんじゃ)略記
祭神(主神)底筒男命・表筒男命・中筒男命
(配祀神)大帯姫命・建内宿祢
主要祭典例祭(五月壬二日)、祈年祭(旧暦二月吉日)、新嘗祭(十一月二三巳)
由緒沿革
人皇第十四代仲哀天皇・神功皇后海外出兵の時、此の地に有りし楠の大木を切って四十八艘の軍船をこの里人に造らされた。その時住吉の大神はわが和魂は皇后の身を守り、荒魂は先鋒となりて軍船を導かんとのお告げあり。皇后神の教を得て拝礼し、荒魂は軍先鋒となり、和魂は玉船鎮(船玉)となり守り給う。めでたく御帰朝の時、住吉の大神は皇后に教えていう。「吾荒魂を、穴門の山田村に祭らしめよ」と。時に穴門直の祖践立津守連の祖田裳見宿祢、神の教えを聞て皇后にもうしていうには、「神の居らんとの地に必定〆奉らん」と。則践立をもて荒魂を祭るの神主に勅宣し給う。文化十一年(一八一四)一六五〇年祭にあたり、有志の人々奉財して少しく修理せり。、平成四年(一九九二)七月、社殿焼失。氏子奉寄進により平成九年五月新社殿再建。

山口県宇部市船木395
旧県社岡崎八幡宮略記
玉依姫命・日女命・姫大神(多紀理毘賣命・市杵島比賣命・多岐津比賣命)
御祭神:応神天皇・神功皇后・仲哀天皇
由緒
人皇代十五代神功皇后海外出兵の時此の地に有りし楠の大木を切って四十八艘の軍船をこの里人に造らされた。
ゆかりにより此の地を船木と称す。
其の後、宝亀元年(770)、人皇四十九代、光仁天皇の勅使として和気清麻呂公、宇佐八幡宮へ御下向の時、船木の因縁を聞召され、皇后の深いゆかりの地として御帰路の際、宇佐八幡宮御分神を此の地に鎮祭さる。それが今この地、岡の崎にして社名、岡崎八幡宮と称す。
船木の氏神様として、御霊験灼かにして船木は元より遠近より崇敬者の参拝多く又、全国にても珍しく御神酒を造ることが許可された神社が四十四社あり、中でも清酒が造れる神社は四社にして、その中の一社にして誠に格式の高い神社であります。
御神酒の造り始めは、神功皇后が此の中国地方にて米の造り方を習われた時、御手植に成られた米で御神酒を造り神様に供えたのが初めと謂われて居る。其の米が早米で背丈一七○センチになる。

日清・日露の戦争で出兵する兵士たちが、このキセルガイの生命力にあやかろうと、お守りとして身につけたという。これは昔、神功皇后の三韓出兵の時に住吉神社の命で、この貝が皇后の船に乗って、御座の周囲に貝の垣根をつくり敵の矢を防いだ、という伝説に由来したものだ。下関市一の宮の住吉神社では、境内の大木にシイボルトコギセルがすみ着いているが、これをデザイン化し「蜷守(になもり)」として売っている。船に乗って、そのまま住吉神社に住み着いたとの言い伝えもある。
キセルガイと神功皇后との関係は多い。
玉垂神社(久留米市)では、征伐中に海が干上がったとき、敵船は横倒しになったが、味方の船は船底に蜷貝がびっしり取り付いて船を支えていた。
どこの神社か忘れたけれど、船に穴が開いたとき、キセルガイがその穴を埋めたというのがあったと思う。兵庫県の和田山では、これがサザエになる。それでこの地方の人はサザエを食べないらしい。その近くに表米神社というのがあって、そこでもサザエの伝説がある。ただし、ここは皇后ではなく、表米神という人の伝説。
48艘というのは、福岡にも伝わっていて、志式神社の神楽でも、また恵蘇八幡宮を調べている時にも出て来ました。48を整数とする民族が中東から来ているのですが、そこからがよく分からないのです。
ニナ貝への思い入れも福岡の伝承と一緒なのですね。いつか写真を撮ってみたいけど…。
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