ひもろぎ逍遥

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御笠の森・神功皇后の笠が飛んだ


御笠の森
みかさのもり
福岡県大野城市山田2丁目 
神功皇后の笠が飛んだ

お待たせしました。
今回から羽白熊鷲との戦いのルートを歩いて行きます。

下関市の忌宮神社(いみのみや)に行って分かったのは
そこが仲哀天皇が宮室をたてた穴戸(あなと)の豊浦宮であって、
新羅の塵輪(じんりん)から都を襲撃されていた事でした。
すでに新羅との戦いは始まっていたのです。

実は仲哀天皇は塵輪に攻撃される前に
下関市から北九州市、豊前市、宇佐市にかけて、
木を切り出して、船を48隻も作らせているのも分かりました。
これらは日本書紀には書かれていない部分でした。

これらの事から分かった流れは、
仲哀天皇は船を48隻造らせて、新羅攻撃の準備に取り掛かっていた。
ところが新羅の塵輪と熊襲の連合軍が豊浦宮を先制攻撃。
かろうじて仲哀天皇が塵輪を射殺して勝利を収めたが、
護衛の阿部高麿、助麿の兄弟は戦死してしまう。

そのために天皇一行は防府市の佐波に避難していたが、
ついに香椎宮に遷宮して、本格的に戦闘の準備に取り掛かった。

軍事訓練をする中、会議で武人たちは先に新羅を攻撃する作戦を勧めたのに、
仲哀天皇は熊襲攻撃に執着した。
仲哀天皇の意向に従い、皇軍は御勢大霊石神社で布陣をして、
宝満川を挟んで羽白熊鷲に対峙したが、天皇が矢で討たれて崩御してしまった。

仲哀天皇の突然の崩御の理由を知るために、皇后が小山田斎宮で神託を聞くと、
神々は熊襲より新羅を討てと勧めた。
しかし神功皇后もまた神々の意見を聞かずに羽白熊鷲攻撃を決意する。
(田油津姫がこの場にいて、皇后を暗殺しようとして失敗している。)

そこで新たに立て直した作戦は陸路と水路の挟み打ちをする事だった。
神功皇后自ら本軍を率いて、陸路を進軍した。

その途中、皇后の笠が吹き飛んでしまう。
この笠が飛ぶ話は日本書紀に書かれているんですね。
仲哀9年2月6日。仲哀天皇は崩御。
3月17日に皇后は熊襲を討とうと思って、香椎宮(かしい)から松峡宮(まつお)に遷った。
その時、つむじ風が起こって御笠が吹き飛んだ。そこで人々はそこを御笠と呼ぶようになった。

それがこの森です。

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廻りは道路と住宅街ですが、見事に残されていました。
鳥居があればまるで神社のようです。

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古木がそのままに遺されていました。

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森の中に入る事が出来ます。森の中は異空間です。
この石は万葉歌碑。

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おもはぬを 思ふと言はば 大野なる 御笠の森ぞ 神し知らさむ

太宰大監 大伴宿禰百代作

読み方はこれでいいのかな…。
漢字は原典は万葉仮名だったので、適当でいいんですが、
ひらがなが上手く読めない…。意味もよう分からん…。
(hurutakaimasakiさんに読み方、教えていただきました。ありがとうございます。)

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何やら祠もありました。説明板があったので、書き写します。
笠が飛んだ話
武内の宿禰以下大勢の軍兵を率いて、香椎の宮から大野に出られ、
宝満山から流れ出て博多湾にそそぐ川(御笠川)のほとりを、
荷持田村(のとりのたふれ)をめざして南に向かわれた神功皇后が、
筒井村の辺りまで進まれた時に、
いたずらなつむじ風が皇后の笠を奪ってしまったのです。
そこで土地の人は笠がぬげたところに、「笠抜ぎ」という地名をつけました。
上筒井小字笠抜の地名は、こうして起こったということです。

空高く舞い上がった笠は風に乗ってくるくる廻りながら、
北へ北へと飛んで行って、一キロメートルはなれた山田村の森の
大きな楠の梢(こずえ)にかかってしましました。

お供の人はこの笠を取ろうとしますが、高すぎてなかなか取れません。
事情を聞いた村長(むらおさ)は森の神様にお願いするほかはないと思い、
お供の人たちと相談しました。そして、森の前で神様に奉納する舞がはじまりました。

すると枝にからまっていた笠のひもは、ひとりでにするするととけて、
笠はひらひらと舞い降りてきました。
大変喜んだ村人達はそこを「舞田」(まいでん)と呼ぶようになりました。

赤司岩雄著『大野城市の伝説とその背景』より抜粋

さすが地元には地名と共に詳しい話が残っていました。
こうして伝えられるとありがたいですね。

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しかし。るな的にはどうも納得できない。
笠が一キロも飛ぶ?
しかも笠が飛んだことが、神様に舞を奉納する騒ぎにまで発展する?
そして、日本書紀にわざわざ書くほどの事件だった?

きっと誰しもがこう思う事でしょう。
何らかの暗喩なのでしょうが、残念ながら謎は解けませんでした。
地元の神への挨拶が出来てなかったという事なのかな…。






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by lunabura | 2011-10-29 14:50 | <地名・地形・伝承> | Trackback | Comments(19)
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Commented by csaオアシス at 2011-10-30 22:50 x

う~ん。。なんとも不思議な「御笠の森」の、お話ですね。。
もし、村長がお願いし、舞を奉納した「森の神様」の御名前が分かれば

この騒ぎの原因と、日本書紀に、わざわざ書いた理由が
分かるかもしれませんね。。^^;
Commented by lunabura at 2011-10-30 23:47
そうなんです。森の中の祠の神さまの名前とか手がかりになるのかな、とも思うのですが、全く関係ないかもしれないし。
一キロ離れた地点も、書いてないけど、赤司岩雄さんは御存じなのでしょうね。その地点こそ知りたい情報なのですが。
このあたりは地形も何もかも変化して、まったく手が付けられませんでした。
謎めいた伝承や神社は沢山あるのですが…。
御笠の場所も調べ始めるといろいろあるのです。
太宰府研究者の方に教えてほしいです。
Commented by hurutakaimasaki at 2011-11-02 12:56 x
添付の地図を見て改めて感じたことです。
宝満山の別名は三笠山ですよね。春日の真東。海抜は869m。
「天の原、ふりさけみれば春日なる、三笠の山にいでし月かも」
唐へ渡った阿部仲麻呂の歌です。出立地は当然博多那の大津。
春日から見た三笠山から昇る月はさぞ美しかったんでしょうね。
luna様「宝満山と月」の写真、心当たりがあれば教えて下さい。
一方、奈良の御蓋山は見かけの高さ200mほど。若草山に登るかしなければ月の出のいい写真は撮れないようです。
ちなみに「三笠の杜」の歌の「大野」は春日から見て宝満山の手前の大野山(四王寺山)ですよね。
なお「三笠社之 神思知三」は「三笠の杜の 神し知らさむ」と訓読されているようです。
三笠山も三笠川も三笠杜も元はみんな福岡だと思っています。
(イラストの山に月があれば・・などど欲張りな願望を・・)
Commented by lunabura at 2011-11-03 21:27
この歌が福岡で詠んだ歌だという話は何人かから聞きましたが、具体的に確認した人を知らないのですよ。
糸島市の松尾氏が精力的に各地から見える日の出を撮ってあるのですが、御笠山があったかどうかは、確認しないと分かりません。
幣の浜の月の出などは拝見しました。
また、御笠山が宝満山のま南にある宮地岳(あしきの近く)を指していたという話を先日くるまざさんが突き止めました。
このあたりは私もよく分からないのですが、分かったらまた報告します。
Commented by hurutakaimasaki at 2011-11-04 03:01 x
調べたら宝満山登山口から少し上がった所に、次のような大宰府市の設置した案内板があるようです。頂上からは博多湾や大宰府が一望できるとのこと。ぜひ行ってみたくなりました。
宝満山。古くから御笠山(みかさやま),竈門山(かまどやま)と呼ばれ,信仰の山として崇められていた。平安時代には伝教大師最澄(さいちょう)が中国へ渡る時,航海の安全を祈って以来,仏教が栄え,江戸時代には山伏たちが修行に励んだ。山中にはその名残の坊跡や窟,また,カマド岩や益影井などの伝説に彩られた場所も多い。明治初めの神仏分離令により,現在では山頂に竈門神社上宮が,麓に下宮が鎮座するのみである。標高829.6m '93 太宰府市
Commented by lunabura at 2011-11-04 10:36
宝満山の登山口あたりのレポートは「竈門神社・宝満宮・太宰府市」に私も書いてます。そこからは山の写真を出してます…。
宝満山は頂上に盤座があり、一つ下がった盤座には梵字が刻まれています。
また頂上からは、阿蘇や雲仙の噴煙も見えます。市民に愛されて登山者でにぎわっています。

また、最澄はこのブログで逍遥中に数カ所で出会いました。
皇石神社(おういし)・綿津見神社・若八幡神社・風治宮(ふうじ)・鴻盧館などです。
検索の欄に「最澄」を入れれば一発でリストがでます。
よかったらご覧ください。

また宿題の「天の原」ですが、地名→高天原に書いているのですが、博多湾から西の方の海域を指しています。
船の上から詠んだ歌のように思いました。
Commented by hurutakaimasaki at 2011-11-04 16:57 x
レポート拝見しました。いや、素晴しい西日ですね!
あの山脈は背振山脈ですか?
天の原ですが、お見込みのとおりこれは航海途上での歌だと思います。但し船ではなく壱岐での停泊時では。壱岐には「天ヶ原(壱岐市勝本町東触)」があります。天ヶ原遺跡や天ヶ原海水浴場などが地図で見えます。壱岐の北端で勝本港付近。ここを出れば対馬を経て韓国に一直線。倭国ともお別れしなければならない感慨深い土地です。博多は見えませんが東は海で海上に昇る月は鮮やかに目に映るはず。月を題材に、天ヶ原という地名と海(アマ)原・天原(空)を掛け言葉にして、倭国を離れもう二度と帰れないかもしれない身の悲哀を歌った素晴しい歌だと思います。
どうでしょうか。
Commented by lunabura at 2011-11-04 17:16
そうですね。背振山脈ですね。
壱岐にも「天ヶ原」があるんですね。それは大変興味深いです。
でも、壱岐から見える御笠山の月は描けるんですか…?
なんて思ったのですが…。いかがでしょうか。
Commented by hurutakaimasaki at 2011-11-04 18:49 x
いや、壱岐の天ヶ原からは御笠山は見えません。海上の月を見て、出発前に眺めていた懐かしい筑紫の月の光景を思い浮かべ、感慨に浸っている歌かと。通説では唐で詠んだことになっていますが、それでは御笠山どころか倭国の島影も見えず、「天の原」は天空の意味しかもたないし「ふりさけ見れば」の臨場感もなくなりますよね。
Commented by lunabura at 2011-11-04 20:00
ああ、なるほどですね。
「天の原」が大地にないと、歌が形骸化したものになりますね。納得です。
こちらはこちらで博多湾からの山はどう見えるのか、リサーチしておきます。
Commented by lunabura at 2011-11-04 20:36
春日から東を撮った写真を見たら、大野城山が宝満山(御笠山)をさえぎるようで、よく見えないみたいです。(その写真も建物が邪魔して全体が見えません。)
一方で、宝満山の南にある宮地岳がかつて御笠山だったという人がもう一人現れました。この宮地岳は三角錐の神奈備山で、笠の形をしているのです。西から見るとついつい目が行く山です。
天拝山から東です。(道真に縁が深い)
来週の満月にくるま座さんが、観測しに行くそうですから、そのレポートを待っててください。
晴れますように。
Commented by hurutakaimasaki at 2011-11-04 22:41 x
宮地嶽=御笠山説も面白いですね。
満月の写真、おおいに楽しみにしています。
ただ、今と昔の地名はだいぶ変わっており、春日ももっと広かったようです。『筑前國続風土記』に、
「春日神社 春日村にあり。此神社あるによりて名つけたり。(略)當社はむかし御笠郡大城山の上に鎮座し給へり。」
とありますから『続風土記』より更に「昔」は春日神社のあった大城山も春日だったということになります。大宰府や大城山から撮った宝満山の写真はHPに沢山アップされていますね。
(追伸:「壱岐天ヶ原から宝満山は見えない」と書きましたが亡くなった福岡の力石さんは「天ヶ原から宝満山までは海上一直線で遮るものはない」と言っておられたとのことです。)
Commented by lunabura at 2011-11-04 23:22
春日あたりの地図や地名はどうしても頭に入りません。地図を見ても入り組んでいて、苦手な場所なのです。
春日神社が大城山の上だったとは知りませんでした。

宝満山は遠くからでも目に入る山です。
太宰府からも見えるのでしょうが、日の出や月の出を見る事は出来ない方向なので、難問なのです。
太宰府からだったら大根地山の美しい三角形の山の脇から月日の出が見られると思うのですが。

糸島半島から壱岐の島がなだらかな形で見えます。逆も真ですが、宝満は距離がさらに遠いですね。隣の三郡山あたりが見えるのでしょうか。東より南にぶれるので、月の出の方向としてはぎりぎり可能性があるのでしょうか。
月の出は太陽と違って、ブレルと聞いています。何度ぐらいの範囲なのかも知る必要がありますね。
グーグルアースだと月の出のようすも確認出来るそうですが、そこまで力量がありません。

御笠山の観月スポット探し、面白いですね。
Commented by hurutakaimasaki at 2011-11-05 01:04 x
図上でチェックしたら春日市春日あたりから晩秋から冬の満月が宝満山から愛宕山方向に出てくるのが見えるはずですが・・。(冬/冬至では月の出は最大23度くらい北にずれる)
夏至では南にずれますが壱岐の天ヶ原からでは無理のようです・・
Commented by hurutakaimasaki at 2011-11-05 01:29 x
失礼。正確な計算では北緯33度51分、東経130度45分の春日付近の12月10日の満月は真東から27度北から昇るとのことです(ネットで高度計算システムが公開されています)地軸の傾きは23度ですが月の軌道も5度ほど傾いているので最大23度というのは間違いでした。すみません)
Commented by lunabura at 2011-11-05 17:09
高度な計算はお任せします(・.・;)
とりあえず、グーグルアースでは須玖岡本遺跡から宝満山も見えるのが分かりました。
Commented by lunabura at 2012-01-22 13:54
このコメントの解答(経過報告は)
「月の浦」に書いています。
http://lunabura.exblog.jp/17342596/
Commented by はな at 2013-10-04 23:18 x
今、先祖探しをしていて見つけました。
http://www.nakamura-u.ac.jp/~library/lib_data/pdf/d07.pdf
これだと全然場所が違うんですけど。
峠を越える時に何かあったという方が納得行きますね。
Commented by lunabura at 2013-10-06 20:05
はなさん、こんばんは。
御笠が飛んだ場所の話ですね。
土地勘のある方に是非突き止めていただきたいなと思っています。
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