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栗田遺跡・朱の祭祀土器のクニは熊鷲と対立していた?・邪馬台国朝倉説はここ


栗田遺跡
くりたいせき
福岡県筑前町栗田
朱の祭祀土器のクニは熊鷲と対立していた?
邪馬台国朝倉説はここ
 

松峡神社の参道からまっすぐ。農道を下って行くと看板がなにげに。おおっ。ここは遺跡だ。

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栗田遺跡(経田地区)
所在地 朝倉郡筑前町大字栗田字経田(きょうで)  (旧三輪町)

この遺跡は、昭和初期にすでに合わせ甕棺(かめかん)や赤色に彩られた高杯(たかづき)・壷(つぼ)類が出土することで知られており、昭和48(1973)年の調査で甕棺72基、祭祀(さいし)遺構8か所の遺構が検出されました。

特に祭祀土器は高杯や壺のほか椀(わん)・甕・大形筒形器台などがあり、精製された胎土で赤色に塗られ、表面の内外をていねいに磨いた丹塗磨研(にぬりまけん)土器が多量に出土し、墓地に伴う祭祀遺跡として有名です。

 これらの出土遺物は、平成6年28日に国の重要文化財の指定を受けました。
         平成12年3月31日   筑前町(旧三輪町)教育委員会

(胎土とは材料の粘土の事。)
おおお。こんな所で会えた。ここは栗田遺跡だ!
甕棺72基と祭祀遺構が八か所とは多いな。

看板にある写真は退色していますが、この遺跡の特徴は真赤な土器なのです。
甘木歴史資料館や小郡国立歴史資料館に行くと、並んだ土器の中でも
一際美しく朱色が輝き、その高杯の高さに目を引かれます。
その赤い土器の出土現場にたまたま出くわしたんだ。
国指定が平成6年とは意外に遅かったんですね。

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(甘木歴史資料館だより41号より)
これは弥生時代の中期だそうです。すると、神功皇后のちょっと前だ。

これについての出土状況の資料があったので、一部を書き換えながらまとめてみます。
すでに畑や水田となっているが、当遺跡は水田面より1.5mほど高い洪積台地上にある。この台地の南の部分が弥生時代の遺跡帯である。

この栗田遺跡は旧栗田小学校の敷地内にあって、今は水田となっているが、この東にはまだ台地が残っていて、同種の遺跡が多く残っているものとみられる。

高杯は全面をベンガラ染めにし、その口縁の平たく広い部分に櫛歯文を間隔を置いて描き、光沢を施している。磨研にはヘラを使っている。

昭和26年に畑地水田化の工事が進められたが、この時もすでに土取りの途中で既に遺物は排土中に投げ出されていたため、出土状況は分からない。しかし、10数基の須玖式の甕棺と共に大型丹塗磨研された器台が出土していた。
(『埋もれていた朝倉文化』朝倉高校史学部出版)

ここに立つと水田なので、土地が低いかと思ったのですが、
もともとは高台で弥生の墓地だったんですね。標高は40m~80mです。
遺跡の上に小学校が建って、畑になって、それから水田に変える時に、どんどん出土したんだ。
昭和26年は戦後間もないから、食糧作りが優先されて、
土器ががんがん出て来てもそこらに放置されたんですね。

それにしてもこの高杯は82センチ。フォルムの美しさといい、
朱色の光輝くようすといい、ほかに見られない美意識の高さです。
甕棺は須玖式というなら、那国とどう関係があるんだろ。
もうちょっと土器を真剣に勉強しながら見ておけばよかった…。
(こんな後悔の日が来るのは予想していたけどね…。)

そして辺りを見まわすと、もう一つ看板がある!
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行ってみるとちょうど稲刈りが一枚終わったところでした。
栗田遺跡(旭ノ下・ひのした地区) 所在地 朝倉郡筑前町栗田字旭ノ下

東に旭ノ下川が南流し、南西300mに多量の祭祀土器を出土し、国指定を受けた栗田遺跡経田地区があります。

昭和49(1974)の調査で弥生時代前期後半から中期の住居跡3軒と袋状貯蔵穴2基、
土壙(どこう)7基、溝跡一条、後期の住居跡1軒、終末期から古墳時代初頭の大溝一条が発掘されました。

またこの遺跡からは「石製把頭飾(はとうしょく)」という有柄(ゆうへい)銅剣の石製模造品が出土しています。
平成20年3月  筑前町教育委員会

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これが石製把頭飾です。弥生時代から古墳時代までの住居があったんですね。
この地域の人たちがここを住居や墓地とするなら、神は山の方。
そう。松峡神社を祀った人たちのはずですね!

しかも羽白熊鷲が太宰府まで遠征するならここを通るはず。
こんな美しい暮らしをしている人たちから略奪するのも無理ないなあ。

という事で、栗田遺跡の人たちは羽白熊鷲と対立して、
神功皇后軍を聖地の松峡神社に迎えた人たちだと思いました。

邪馬台国が朝倉にあるという人たちはここを邪馬台国と推定しています。
その場合の卑弥呼の墓と噂されているのがこれ。

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それでなくても、気になる塚です。

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ここに立って驚いたのは、みやま市の田油津姫との戦いの現場とどこか
雰囲気が似ている事でした。東の山との距離感です。
このクニの特徴は目の前に二神山がある事です。

太陽祭祀があったにちがいない。地名も「旭ノ下、久光」などがある。
ここからは神の山ー大己貴神社の御神体山が見えていました。
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その山の右の方を見ると、あれは仙道古墳の前の森だ。大己貴神社がその向こう。
皇后軍はこの山裾を通って大己貴神社まで進軍しました。

ここは巨大な祭祀遺構の只中だ。まずは観測ポイントをさがそう。
必ずそこに神社か石がある。探しに行こう。(^ ^)/

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地図 粟田遺跡

参考
栗田遺跡を詳しく知りたい方のために文化庁データベースから。
弥生時代の墳墓から出土した赤色塗彩磨研土器の一括で、壺形二十七箇、甕形六箇、鉢形二箇、高坏形十箇、器台形三箇、蓋形一箇で構成される。

 栗田遺跡は福岡県朝倉郡三輪町、朝倉山塊の南麓に形成された扇状地に立地し、圃場整備事業に先立つ昭和四十八年度の調査以来、昭和四十九年度、六十年度と三次にわたる発掘調査が実施された。

 本件は、そのうちのB区と称された四〇〇平方メートルの範囲で検出された、弥生時代中期から後期の甕棺墓・土壙墓群と、この墓地を区画すると考えられる溝から出土した一括である。土器は「丹塗磨研土器【にぬりまけんどき】」と称されるものが大半を占め、それに磨研土器が伴っている。これらは、甕棺埋葬に伴う墓前祭祀に用いられたものと考えられる。なかでも器台形土器は、高さ八二センチを測り、大型でその遺存状態もよい。

 丹塗磨研土器を祭祀に用いるのは、主に佐賀県や福岡県中南部など、北部九州を中心にした地域であるが、住居跡内から出土する例もあり、墓域以外でも日常の祭祀に用いられることがあった。
 本件の一括は、弥生時代最盛期の基本的な組み合わせである高坏、壺、甕、器台が質量共に豊富に揃い、弥生時代の葬制を具体的に示す恰好の資料として価値が高い。






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by lunabura | 2011-11-06 13:50 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(2)
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Commented by csaオアシス at 2011-11-09 08:40 x

私も県南の地方に行ったときに、その広大で稲作に適した肥沃な土地を持つ
筑後平野には、いにしえの昔、高度な文化を持った一族が暮らしていたのだろうと
実感したことがあります。

その時代には、やはり部族の対立などが、あったのでしょうね。。
そこに遠征してくる「神功皇后軍」。
いろいろな出来事があったのだろうと、思いを馳せてしまいます。
Commented by lunabura at 2011-11-09 09:28
そうですね。広い田園と山を見ると、不思議に弥生時代にタイムスリップしてしまいます。
神社伝承をつなぐと思いがけず具体的な営みが見えて来ました。もっと早く記事にしたいと思いながら、時間がとれずに遅くなっています。
でも、必ず完成させます。
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