2011年 12月 11日
吉野ヶ里歴史公園(1)ここでは銅鐸を作っていたよ
吉野ヶ里歴史公園(1)
よしのがり
佐賀県神崎郡吉野ヶ里町
ここでは銅鐸を作っていたよ
先日は「よみがえる邪馬台国・吉野ヶ里と出雲王国」という
特別企画展を見て来ました。
前に書いたように、そこで弥生時代の縫い針を見つけたのはラッキーでした。
今回特に興味を持ったのは「銅鐸の鋳型」です。
何故なら、福岡の綱脇八幡宮の伝承に、
「神功皇后が金工に新たに宝剣を作らせた」というのがあるのですが、
どうして旅の途中にそんな事が出来たのだろうかという疑問が
ずっと心に引っ掛かっていたからです。
1・鋳型はどうしたのだろう。金工は持ち歩いていたのだろうか。
2・鋳型は再利用出来るのだろうか。
そんな疑問です。
吉野ヶ里にはそれに答えてくれる資料がありましたよ。
まず、会場入り口で迎えてくれたのが二つの銅鐸。
吉野ヶ里と出雲の銅鐸が並んでいて鳴らせるようになっていました。
サイズは30センチぐらいだったでしょうか。意外に小さい。
元のサイズはどうだったのか、説明がなかったのですが、
とりあえず音を鳴らして見ました。
カーン。吉野ヶ里の方が低音でした。
鐘のような響きの余韻がないので、正直言ってうるさいです。
音楽にはとても使えません…。
会場には吉野ヶ里で出土した鋳型があったのでこれ幸いと材質を聞くと、
石英カンラン石で、
東背振山(ひがしせぶり・すぐ近くの山)や八女(やめ)で採れるものだそうです。
へえ、そうなんだ。
会場は撮影禁止なので、撮影OKの展示室で別の鋳型を撮ったのが上の写真です。
鋳型を作るためには左右対称に正確に彫って、一本の線の歪みも許されないから、
作るのにはすごい技術が要りそうですね。
これは吉野ヶ里遺跡から出土した銅鐸そのものです。
そして購入した冊子を読んでびっくり。
吉野ヶ里の銅鐸と同じ鋳型で作られたものが島根県で出土していたのです。
イラストではその二つが並べられています。
でも、よく見比べると文様が違うでしょ。右には目、鼻、鳥があります。
研究によると、最初に吉野ヶ里の銅鐸を作って、
その後に鋳型にさらに目や鼻などを彫り込んで、
二つ目を作ったのではないかという事でした。
これは何と魅力的な話。二つの国がどう関係したのか想像するのも楽しいですね。
取り敢えず、これで綱脇八幡宮での疑問の答えが出ました。
鋳型って、持ち歩いたり再利用したり出来たんです!
そして、その翌朝のこと。西日本新聞を見てびっくり。
そこに吉野ヶ里の銅鐸について記述があったのです。
(森浩一の交友録「忘れえぬ人」より、一部を抜粋)
この鋳型の素材について教えて貰ったばかりだったのですごく印象的な記事でした。
福岡では銅鐸が造られていた!
学説はどんどん作りかえられて行きます。
これは溶けた銅を取り扱うための道具などです。
弥生前期のものですから、紀元前から銅を作っていた事になります。
吉野ヶ里は鉄ももちろん出土しています。
ハイテクの工房があったんですね。
それにしても想像もしていなかったのは、出雲の銅剣や銅鐸の本来の色。
含有した金属の組成を元に復元作成された物は黄金色でした。
あの青緑色のしぶい色しか知らなかったので、
出雲の国は黄金色が揺らめくまばゆい世界だったのが分かりました。
それに対して糸島市の平原遺跡の復元された銅鏡はプラチナ色です。
白銅色という日本書紀の表現はぴったりなのです。
青銅器と言っても古代の色は全く違っていた。これは大きな収穫でした。
(つづく)
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銅鐸の話,興味深く、わかりやすく書いて頂いてうれしいです。
私は鳥栖ではなく、久留米市ですが,筑後平野の、古代のすばらしさもっと日本中の人このことを知ってくれたらいいのにと思っていました。感激です。本も楽しみにしています。がんばってくださいね。
そうそう。この鋳型の件についてはご主人さまにも教えていただいたりして、ありがとうございました。
筑後平野は奥が深いので、少しずつアプローチしたいと思います。
浮羽あたりも、来年あたり探査出来たらと思っています。
神社伝承と考古学出土物が有機的につながっていけたらいいですね。