2011年 12月 14日
秋月八幡宮・ここは羽白熊鷲の聖地か
秋月八幡宮
あきづきはちまんぐう
福岡県朝倉市秋月
ここは羽白熊鷲の聖地か
秋月のメインストリート「杉の馬場」に下りて来て、さらに奥に進むと鳥居がありました。
山の中に入っていく車道があります。

歩いて行くと、まもなく右の下の方に湖が見えて来ました。
山の上に水がある…。

と思う間もなく神社に着きました。
私たちは裏手から入っていました。

これが裏の入口のようす。神殿の裏側です。

正面に廻って驚きました。
こんな山の中にこんな大きな神社が建っていようとは。
私は既に入り口で由来書きを読んでいました。
秋月八幡宮由来藤原純友については、時々伝承に出くわします。
秋月八幡宮の歴史は古く、平安時代中期の940年、朝廷に謀反を起こした藤原純友の追捕使としてこの地に来た大蔵春実が、神功皇后の旧地とされる宮の丘(現在の社のある周辺)で戦運を祈願したところ、たちまち純友の乱を平定することが出来たことから、946年、この地に武人の守護神として神社を建立したのが始まりだと記されています。(神布皇后と書いてあるのですが、神功皇后と思われます。るな)
その後、鎌倉時代に遷り、1203年、秋月氏の祖といわれる秋月種雄公(大蔵春美の八世孫)が秋月の地に移り住むようになり、現在の社の本宮を造営したとされています。
社は秋月氏によって400年にわたって代々修造が加えられて多くの信仰を集めて来ましたが、秋月氏の高鍋への移封によって久しく退廃していったとあります。
昔は道が沢山あった訳ではないので、移動ルートが重なったりしています。
ここの場合は純友と戦う大蔵春実が神功皇后の旧跡という事で、
この場所にやって来て祈願したという訳です。
純友の乱を平定した後に神社を建立しているので、
大蔵春実が参拝した頃は石が祠かがあったのでしょう。
江戸時代に入り1624年、秋月藩初代藩主黒田長興公が就封されてからは、黒田長興公は前回の垂裕(すいよう)神社の祭神として祭られていましたネ。
15年ごとに数次にわたって社の本宮、拝殿の改修が行われて、
施設が完備されると共に、夏秋二度の祭事が賑やかに行われるなど、
近隣の住民の信仰が大変厚かったと記されています。
現在も7月の夏祭り、10月の御神幸の御降りなどが行われています。
歴史のある郷土秋月でも由緒ある建造物として800年にわたって現在まで受け継がれている八幡宮は数少ない歴史的建造物となっています。
長興公はこの八幡宮を守護神として信仰し、何度も修復を重ねています。

この拝殿は鎌倉時代の建物なのですね。
拝殿の正面には「武徳門」と書かれています。
「武」の字は「戈(ほこ)を止める」=「戦いを止める」という意味なので、
この宮には「戦いでなく徳で治世する祈り」が込められています。
気になったのは、ここは山上なのに、とても広い事です。

本殿の前の方です。

これは本殿の左にある敷地です。石碑は忠霊塔でした。
本殿より少し低くなっています。
ここは大きな屋敷があってもよい広さです。
かなりの人数が生活でき、水は裏にある湖から得られる。
そして神功皇后軍の陣営「宮園の森」があった。
羽白熊鷲の居城はここなのだろうか。
それとも、非常事態のために造られていた山城?
この広さは何だろう。

神木は古く、巨大でひたすら美しい。
その左下に写った鳥居は別の方向を向いていました。

これは廻り込んで撮ったものです。

そして本殿の方に歩いて行くと、まるで城壁のような構えです。
正面に立って参道を見下ろすと、

絶壁に石段が付けられていました。
写真でも分かるように途中の階段が見えないほどの急斜面です。
さすがにこの石段を下りて再び戻ってくる気にはなりませんでした。
ここは山城だった?
水があり、広い敷地があり、二段になっている。
正面からはとても攻撃出来ない。
でも正面の石段は後世のものの可能性が高いし。
境内の端の変な向きの鳥居も気になって、一緒に行ったマーサに、
「さっきの鳥居の方が古いよね。」
「そう。もとの参道はそっちだったと私も思う。」
「今の拝殿はその後に造られた?だから祭祀線が違う。」
「そう。」
「ここが遥拝所ならどの山を遥拝する?」
「やっぱり古処山(こしょさん)でしょ。古い参道が古処を向いていると思う。」
「なるほどね。本殿あたりが聖域で、古処山を遥拝し、
左の敷地が祀り事をするための施設があった。
そして、いざと言う時の籠城用のものだった。」
ここは羽白熊鷲の祭祀場で、遥拝所だったのではないかという結論を出しました。
後談ですが家に帰って神社誌を読んでびっくり。
「社の南下向道の傍らの土中に、
古代の神供を盛る土器がいくらともなく今なお出てくる」と書いてありました。
やっぱりそうだ。祭祀用の土器が沢山出土している。
南下向道とは上の写真の石段の廻りだろう。
考古学的な調査資料が見たい。発掘調査されただろうか。
この土器を供えたのは羽白熊鷲の一族で、連綿として祭祀していた聖地だ。
敵の聖地を奪取することは、勝利を意味する。
この地を抑えた皇后軍は勝利宣言をしたに違いない。
しかし、戦いはここでは終わらなかった。
何故なら皇后軍の足跡はこの急な石段の向こうに続いている。
熊鷲たちはここを捨てて敗走して行った。
そして寺内ダムのそばで最期を迎える。
しかし、その間はどこを通って行ったのだろう。
もうこれ以上は分からない。
そう思いながら、
「マーサ。これで今日の予定は終わり。今日はありがとう。」
「そう?神功皇后の鎧掛けの神社なら、もう一つ知ってるけど。」
「え?鎧掛けの神社?そこ、そこ。
もう探せないとあきらめてたんだけど。近くにあるの?」
「うん。近いよ。行く?」
「行く。行く。連れてって。」
こうして、私たちはもう一か所の神社に廻りました。
地図 秋月八幡宮
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神功皇后の聖地 「秋月」ここもまた、月なのですね。また、ここ朝倉は、斉明天皇の地でもありますね。
今日、神功皇后の真の姿が、見えてきました。
るなさんにとっては、あまり嬉しい姿ではないかもしれませんが。。。。。
しかし、驚くほどすごいスピードで、いろんなことが繋がっていて、その姿が明らかになるごとに、嬉しさと、驚きと同時に、怖さ、またある意味尊敬に値するほどの、徹底振り。本当に、言葉がありません。
「秋月」昔、20代のころ、芸名のようなもうひとつの名前がありました。私の人生に大きく影響を与えた人がつけた名前。
「秋月葉子」
もう、あのときから、今に繋がっていたのかと最近思ってしまいます。
朝倉は斉明天皇の崩御の地です。同じ地名が愛媛にあるのでびっくりしました。この言葉は「朝の星座」に由来するらしいです。「あしたのいわくら」と真鍋大覚氏は言います。そろそろ少し理解出来る知識がついたかも。
もういちど眞鍋氏にもチャレンジしたい。
この先、神功皇后の祀った宮に、斉明天皇が参拝した話や、女官たちの宿舎などの話も出て来ます。
朝倉の広庭宮は神社伝承からすると、考古学者は違う所を掘っているのかもと思い始めました。先ほどから斉明天皇の日本書紀の訳を始めからしないといけないかな…と思っていた所です。そして朝倉をもっと調べたいと。またもやシンクロですね。
愛姫さんの発見した神功皇后。楽しみにしています。

秋月八幡宮の参道怖い位の急斜面ですよね(>_<)だから秋月城跡の方からの参道が出来たんでしょうか?
先日、偶然秋月八幡宮の古図を見れるページに行ったんですが、絶壁に階段が付いている感じでした((T_T))
マヤの神殿みたいに特定の人間以外登らせる気の無い階段のような。
もし仮に羽白熊鷲の居城だとしたら、羽のある人なら行き来自由そうだと思いますが。
秋月八幡宮のレポ拝見しました。
私が通らなかった参道から行ったのですね。
それもまたいつか通ってみたいです。
正面の石段はハンパじゃない角度でしたね。
遥か下界に見える鳥居を撮らねばとも思ったのですが、
下りて上る事を考えると、あきらめました。
左右の斜面から祭祀土器がかなり出るらしいけど、考古学的には手つかずだそうです。
土器から年代が分かるのになあ。