ひもろぎ逍遥

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美奈宜神社(寺内)神功皇后は神々に戦勝を奉告した


美奈宜神社(寺内)
みなぎじんじゃ
福岡県朝倉市荷原2421
神功皇后は神々に戦勝報告をした

羽白熊鷲との戦いの後、次に神功皇后の伝承が出てくるのは
熊鷲の塚から約一キロ下った美奈宜神社です。

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佐田川にかかる橋を渡ると一の鳥居です。

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これは橋からの眺め。
神功皇后がこの川を「みな清し」と言ったことから
「美奈宜」(みなぎ)と付いたと言います。

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砂利が敷き詰められた明るい参道の向こうは森の中。

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石段を上ると神門がありました。
かつては神官・僧侶が36人も仕えていたそうです。

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少しずつ森が深まって行きます。
山の中に池があって、ようやく神殿が見え始めました。

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拝殿です。ちょうど工事中でした。

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それで幸運にも御神体を象徴する御幣がすぐ目の前に置かれていていました。

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ここは山あいの宮なので、どれもこれもが苔むしていて美しいです。

この宮にも神功皇后の伝承がありました。
由緒書きを写します。
式内 美奈宜神社
祭神 天照皇大神 住吉大明神 春日大明神 
   相殿 神功皇后 武内宿禰 をあわせ祭る

由緒
第14代仲哀天皇は白髪山(しらがみやまー古処)を本城とする敵「羽白熊鷲」を討つため軍を進められていたが、途中病気で急逝、しかし神功皇后は喪を秘して武内宿禰らを従えて喰那尾(くいなお)山頂(ここから北西200m)の地で陣を敷き謀議の末、賊を討たれた。

これはお告げをうけた三神の助であるとして美奈宜川上「池辺」(ここから東へ300m)の地で戦勝奉告をされた。
後に仁徳天皇(神功皇后の孫)の勅願により「池辺」にこの神を祭るようになった。(西暦312年頃)後世ここを「本宮」という。

遷宮
1.大宝元年旧9月22日(西暦751年)喰那尾山頂の陣跡へ。
2.元弘3年(西暦1333年)大宮谷(ここから100m上)へ。
3.天正2年11月(西暦1574年)領主秋月種実の頃現在地へ。神領50町。神官・僧侶36人仕えていた。

社格 
貞観元年正月27日(西暦859年)「従五位上」という位を給う。これは「三代実録」の文中に見える。また延喜式10巻神名帳(西暦920年頃の書)に「筑前国下座郡美奈宜神社三座」名神大と記載あり。

祭礼
10月22日の「おくんち」には獅子、羽熊等お供約200人の御神幸行列が今なお行われている。

これまで羽白熊鷲攻撃のルートを辿ってきましたが、
この由緒書きでおさらいすると、
仲哀天皇は羽白熊鷲を攻撃しようと小郡市の御勢大霊石神社を本陣として
中つ海(筑後川)を挟んで羽白熊鷲に対峙し、
前哨地を視察する途中に熊鷲軍の矢に倒れました。

その死については病気説がありますが、実情は戦死で、
不名誉なために病気で急逝という事になったのではないかと考えるようになりました。

その後神功皇后は小山田斎宮で祟った神を明らかにして、教えのままに祭事を済ませ、
仲哀軍を率いて陸路を進軍して本拠地の秋月野鳥(のとり)を攻撃、
逃げる敵を追って喰那尾山頂を奪取。(喰那尾神社=美奈宜神社本宮)
そこに神籬(ひもろぎ)を作って神々に戦勝を祈りました。

その神々の名がこの美奈宜神社に書かれています。
天照皇大神 住吉大明神 春日大明神 の三神です。
この三神は小山田斎宮で神託を受けた神々だと伝えています。

参考として小山田斎宮の祭神を挙げると
天照大神 健布都神 事代主神 住吉三神 息長足姫尊
天照大御神と住吉三神が共通しています。

これまでの神功皇后の祭祀の仕方を見ていると、
いつくかのパターンがあるのが分かってきましたが、その一つとして、
「援助してくれた氏族」の神を祭祀するという事があります。

この山の中に神道の中核を成すような三神があるのは、
それらが「連合軍たる皇后軍を形成する氏族」の神々で、
それを祀る事で連合軍への感謝を皇后は示した結果だと考えています。
この祈りが武人たちの心を掴む事になったんだなとも。

興味があるのは、小山田斎宮の神々が仲哀天皇を殺した祟り神であって、
十分に祭祀したお蔭で守護の神となった点です。
祟り神は祭祀する事で味方に付けることができました。

そう思いつつ、実は何故、天照大御神が仲哀天皇に祟ったのか、
その謎を抱えて、ずっと歩いているのです。
まだ手掛かりを掴めていません。

遷宮について。
由緒を読むと神社はあちこちに遷宮しています。
元宮はどこだろう?
もう一つの美奈宜神社と関係はどうなっているのだろう?
そんな疑問を持っていました。
はじめはよく分からなかったのですが、現地に行き神社にお尋ねして見えて来ました。

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現在の美奈宜神社の300mほど上流の「池辺」で神功皇后は神籬を立て、神を招いて戦の勝利を奉告しました。のちに仁徳天皇の勅願で神社となりました。(本宮、元宮)
751年、「喰那尾」山頂に遷宮。(栗尾山)
1333年、山頂は暴風雨が多いために「大宮谷」に遷宮。(中宮)
1574年、中宮は境内が狭くて陰気なため現在地「荷原」に遷宮。

という事です。

それでは、二つの美奈宜神社の関係は?
同じ朝倉に二つの美奈宜神社がある事について、結論を言えば、
二つの美奈宜神社は全く関係なく、名前が同じなのは偶然だそうです。

荷原(寺内)の美奈宜神社は皇后が「みなきよし」と言った事から付き、
林田の美奈宜神社は「になしろ」(を作った)から付いた名だとか。
祭神もそれぞれ違っていました。

これですっきりしました。
林田の美奈宜神社については既に詳述しているのでサイドバーからどうぞ。

それでは次の伝承地に行って見ましょう。

地図 美奈宜神社




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by lunabura | 2011-11-14 15:22 | 美奈宜神社・寺内・林田 | Comments(5)
Commented by hurutakaimasaki at 2012-01-06 13:07 x
新年も快調な滑り出しですね!
ちょっと質問。「御神体がすぐ目の前に置かれていていました」とありますが、写真の「牛」のような石造がご神体ですか?
あれは「牛」なのでしょうか?
であれば、何故「牛」がご神体なのでしょうか?
分かれば教えてください。
Commented by lunabura at 2012-01-06 13:42
あっ、失礼しました!
写真の挿入場所が間違っていました!

今、入れ替えましたが、これで御神体は三つの幣だと分かるでしょうか(・.・;)
ちょうど奥の神殿の内部が建築中で、御神体が前面に出ていたと思って、参拝しました。
本当の御神体はもちろん、どこかに遷されていると思いますが…。
ちょこっと文面変えておきましょ。

牛は苔を写したかっただけなんですョ。(苔ファンです。)
御指摘ありがとうございました。 (^-^) <(_ _)>
Commented by hurutakaimasaki at 2012-01-07 13:08 x
こちらこそ見方が雑で、お手数かけました。
実は関心は「牛」にあったのです。日本書紀の安閑2年(533または535年)に「牛を難破の大隅嶋と媛嶋松原とに放て。冀(ねがわ)くは名を後に垂れむ。」との記事がありますが、なぜ牛が安閑天皇の名と関係するのかが謎(岩波日本書紀注釈)とされています。
この時代は新羅との抗争の最中であったことから、神功皇后の事績ともかぶっており、謎を解くヒントが「牛」の像にあるかもしれないという興味で質問させていただいたものです。
狛犬はあっても狛牛というのは、珍しいものですから・・・なんでかな?と。すみませんでした。

Commented by lunabura at 2012-01-07 13:38
いえ、大変ありがたかったです。

牛の像はこちらには沢山あります。
牛は現金収入としてとても大切にされていたので奉納されているのかなと思ったりしていて、UPしていませんでした。

若八幡神社(田川市)の拝殿の左右にに小さく写真が見えるぐらいですが、
牛=菅原道真公=老松神社
というのが基本的な見方です。

老松神社は冶金の神と関わるのですが、祭神を忘れた神社もあり、
農耕社会へ変化した時に、断絶があるのではないかと考えています。
そう考えるようになったのは「出目・袴着天満宮」とみやま市の「老松神社」あたりからです。

三社ともよろしかったらサイドバーからご覧になってください。
Commented by モンクレール 買取 at 2013-10-26 15:24 x
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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