2012年 01月 07日
福成神社・景行、神功、斉明、中大江皇子が参拝・朝倉橘広庭宮は近い
ふくなりじんじゃ
福岡県朝倉市入地
景行、神功、斉明、中大江皇子が参拝した宮
朝倉橘広庭宮は近いぞ
歩いても30分かからない所に福成神社はあります。
筑後平野の中の集落の中央部にあり、
くねくねと曲がる狭い道に突然神社が現れるような所です。
神社を中心にして町が形成されたような印象を受けました。

一の鳥居です。道路に並行しているので、左右をキョロキョロしないと
通り過ぎそうです。

参道のモザイクがおしゃれで、
両脇の桜の木が春にはさぞかし美しいだろうと思われます。

拝殿です。柱があるだけでとても開放的。
雨風の時には雨が降り込むのでしょうか。

拝殿には沢山の絵馬が奉納されています。羅針盤が中央にありますね!
海人族に関係があります。

神殿です。

訪れた時には銀杏の実が色づく頃でした。
境内にはネットが敷かれ、銀杏の実が収穫されていました。
季節に即した人々の営みが今なお息づいている処でした。
ここは旧朝倉町。各地の史跡に説明板が設置されています。
これを読みながら驚愕しました。
福成神社 朝倉町大字入地字宮ノ本1673あっと驚く名前が次々に出て来ます。上から順に見ていきたいと思います。
祭神 宗像三女神(田心姫命・市杵島姫命・湍津姫命)
斉明天皇
天智天皇
別名を「印鑰(いんやく)大明神」ともいい、朝倉町で最も古い神社である。毎年10月26日には祭礼が行われる。
その昔、神功皇后が熊襲を征伐し、三韓に兵を進められた時、宗像三神を祀り海路の安全を祈られ、この地に来られたといわれている。この時皇后は、「神の助けによって大いに福成りぬ。」と言われたことから、福成神社といわれるようになったと伝えられている。
また斉明天皇も、百済救援の時、中大兄皇子らと共にこの神社で戦勝祈願をされたといわれている。
なお、神社の東方には、謡曲で有名な「綾の鼓」の舞台となった桂の池跡があり、謡の中に出てくる「源太老人」を祀ったといわれる地蔵尊が、神社の西側にたてられている。
印鑰(いんにゃく・いんやく)
印鑰神社はこのブログでは、高良玉垂宮にちょっと出て来ましたが、
「印」とは印鑑。「鑰」とは鍵。
朝廷から預かった印鑑と鍵を特別に保管した所が神社になったりしています。
ここも、そのような役所があったのでしょうね。
中心的な場所だという事を示しています。
神功皇后と三女神
神功皇后は太刀神社からここに来たのではないかと考えました。
田油津姫攻撃をするためには、ここからは海路になるのです。
その為に水の神である宗像三女神に神助を祈願しました。
ここに三女神を祭ったのは景行天皇です。
その時代から三女神を守護とする氏族の拠点だった事を意味します。
その氏族とは水沼の君です。
「宗像三女神は水沼の君のもちいつく神である」
という日本書紀の記述が整合して来ます。
最近わたしは「みぬまかた→むなかた」と変化したのではないかと
考え始めています。
水沼の君の一族は有明海から中つ海(筑後川+宝満川)の
浅い海の航海技術を持っていたと考えます。
この時代は水が豊かでした。
しかし、「中つ海」が堆積して陸地化すると活躍の場を失い
新天地を求めて宗像市に移ったのではないかと思い始めています。
宗像方面のある学芸員の人と話し合ったのですが、
宗像族は安曇族より新しい。
古代には宗像族は宗像市に見つからない。
いったいどこにいたのだろう。
鞍手郡の六ケ岳に降臨したというが、その前は何処に居たのだろう。
という問題でした。
そしてこの筑後川流域に古くから三女神の祭祀があるのを知ったのです。
ここは水沼の君のエリア。
その祖は国乳別(くにちわけ)皇子。景行天皇の子です。(⇒弓頭神社)
この福成神社で景行天皇が三女神を祀ったという点。
近くの太刀神社も三女神。
そして赤司神社(久留米市)にも三女神。
三女神の元の形が次第に浮かび上がって来ました。
詳しくは赤司神社でさらに考えたいと思います。
斉明天皇と中大兄皇子も参拝した
ここは景行天皇の祭祀した宮という事で神功皇后がやって来て、
新羅に勝ちました。
400年以上経って斉明天皇と中大兄皇子もその故事に倣ったのでしょう、
朝倉橘広庭宮に到着後、三日目には参拝したと伝わっています。
新羅と戦うために是非ともこの神の神助を仰ぎたかったからです。
朝倉橘広庭宮はまだ宮跡が特定されていませんが、
モガリの宮となった恵蘇八幡宮と木の丸殿はここから東へ5キロの所です。
広庭宮はかなり近いことが分かります。
そして、源太老人の墓が神社のすぐ左隣にある事から、
宮に仕える女官たちの宿舎も近い事が分かって来ました。

これがその源太老人の墓石です。そこにも説明板がありました。
今から約1300年前、斉明天皇が朝倉橘広庭宮に遷られた頃、天皇にお供してきた女官に、庭掃きの「源太老人」が思いを寄せていた。しかし、身分の違いからこの恋は実らず、源太老人は「桂の池」に身を投げて自殺してしまった。源太老人の恋の話はどこかで聞いたことがあったのですが、
一方女官は、毎晩源太老人の亡霊になやまされ、とうとう気が狂い池に身を投げてしまったのである。そこで、源太老人の供養のためにこの地蔵尊がたてられ、隣には源太の墓がたてられたのである。
この地区では、毎年4月13日になると、源太老人の供養のためにお祭りが行われている。なお、現在、桂川にかかる橋名を「宮殿橋(ぐうでんばし)」といい、その横には「桂の池跡」の石碑がたっている。
その話の現場がこの朝倉だったとは全く知りませんでした。
この女官は、天智天皇の寵妃だという説もあり、
一目見ることも許されないのはやはり身分がかなり高い人だっただろうと思いました。
女官の宿舎や桂の池跡は宮から近いとのことで、只今、朝倉町に問合わせ中です。
このすがすがしく明るい宮の近くに大きな池があり、その橋は宮殿橋と言った。
女官の宿舎がすぐ近くにあった。
朝倉橘広庭宮をめぐる女官や掃除人たちの哀しい事件。
想像だにしなかった王朝絵巻がここに眠っていたとは。
ここの地名は「宮ノ本」。
近辺の神社にも天智天皇の伝承がいくつか見られるので、
今年はぜひ全体の位置関係を把握したいなと思っています。
田油津姫攻撃の想定ルート
さて、神功皇后はここから船で有明海に行くのですが、
そのルートはどうなっているのだろうかと考えました。

すでに、小郡市の「津古」から船に乗って、
行在所の老松神社で祭祀をしたという伝承を紹介しています。(⇒老松神社(小郡市))
そのラインを結ぶルートを考えると、
いったん大本営のある松峡八幡宮に戻る為に陸路を北上。
針摺(はりずり)で宝満川を渡り、津古(つこ)に出る
と考えたら上手く行きました。
「針摺」は入り海が一番狭い所。
「津古」は有明海へと渡る帆かけ舟が停泊する大きな湊でした。
しかし、この想定ルートに自信がなくて、神社誌を見ていると、
「神功皇后がお腹が痛くなった」という神社がラインに乗って来ました。
それが地図の左上の松尾宮です。
次回はそこに行きましょう。
地図 福成神社
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某女帝漫画では中大兄皇子ファンなのらは朝倉宮を想像してはニヤケてました(爆)現朝倉宮跡は確定地ではないのでルナさんの推理を楽しみに待ってます。
人間関係が分からなかったんです。
朝倉は走るのにも気持ちいいし、おいしいアップルパイもあるけど、
神社は未訪問でした。
バス亭の地名がずっと気になっていたので、いいターゲットを見つけました。ここらは古墳や遺跡も多いし。
神功皇后がまだ70社しか出してないので、あと30社出したら、
斉明天皇、やろうかな…と思いつつ。
あっちふらふら、こっちふらふらとなりそうです。
秋月経由だったり冷水峠から原鶴経由だったり色々だったですけど、確かに鳥居を多数見かけた気がします。
見かけて気にはなるけど立ち寄らないという……(ToT)
『源太老人』はこれまた某能楽師漫画で似たお話がチラッと出てきたのを覚えています。(漫画ばっかりやな(爆)
凄く古い伝説が題材だったんですね~。
でも恋敵が中大兄さまじゃあ諦めるしかない気がします…。
ただ、いっかいの老人にしては、里人が大切に祀ったのには、何か裏がある…なんて思っちゃいました。
神社は由緒書きが無ければ、どうしようもないですよね。
書かれていても、祭神の意味も分からないことが多いし。
私も、帰ってゆっくり調べたりして、驚いてばかりいます。








