2012年 01月 11日
赤司八幡神社(4)景行天皇と猿大海と八女津媛
赤司八幡神社(4)
景行天皇と猿大海と八女津媛
さあ、縁起のつづきです。前回の話から数百年経ちました。
大足彦(おおたらしひこ)天皇が来られて祭壇をたてて、国乳別皇子(くにちわけのみこ)を天皇の代行者とした。この方が河北(こうこた)の惣大宮司・水沼の君の始祖である。大足彦天皇とは景行天皇の事です。国乳別皇子は天皇の皇子です。
弓頭(ゆみがしら)大明神と呼ばれて、弓頭神社に祀られていて、
墓所もその近くにありました。(⇒弓頭神社)
その人が水沼の君の祖になったと書かれていますが、
水沼の君は古くからここにいたので、
婚姻関係が生じてから、貴種の末裔だと名乗ったと思われます。
景行天皇は神功皇后の2世代前で、やはり筑紫を中心として移動して、
戦いか帰順かという選択を各地で迫りました。
旧山門郡では、女王・葛築目(くずめ・くずちめ)が殺されたのが、
記憶に新しいです。(⇒老松神社と蜘蛛塚・みやま市)
同じ地で神功皇后は田油津姫を殺しています。
その景行天皇が福成神社では三女神を祭祀しました。
そして、この筑紫中津宮でも三女神を祭祀したと言います。
そのあと自分の皇子を代行者として残したのですから、
彼がここをとても重要視したのが分かります。ここは三女神を祀る中心地だったのでしょう。
景行天皇がここに来るまでの状況が日本書紀に書かれています。
7月7日に八女の県(あがた)に着きました。藤山を越えて南の粟岬を望みました。天皇は
「あの山の峰々が重なってなんと美しいことか。ひょっとすると神がおわすのではないだろうか。」と言いました。
その時、水沼(みぬま)の県主(あがたぬし)・猿大海(さるおおみ)が、
「女神がおわします。名を八女津媛(やめつひめ)と言います。いつも山の中におわします。」
と奏上しました。八女(やめ)の国の名はこれから起こりました。
8月に的邑(いくはのむら)に着いて、食事をしました。この日、料理人たちはウキ(盃)を忘れました。そこでウキを忘れた所を浮羽と呼ぶようになりました。今、的(いくは)というのは訛りです。昔筑紫の人々はウキを浮羽と呼んでいたのです。

7月に大牟田から北上して八女を通り、8月に浮羽に行っています。
この筑紫中津宮は八女と浮羽の間にあるので、景行天皇はここに滞在したことでしょう。
ここには猿大海の住まいがあったと神社では伝えています。
猿大海は景行天皇に随行した時、八女津媛の話をしています。
実は私はこの姫の命運が心配でした。あの景行天皇が黙って通り過ぎたのだろうかと。
そう思っていたら、この宮の資料に八女津媛の名前が出て来ました。
「八女津媛は道主貴(みちぬしのむち)の陰魂の荒魂(あらみたま)という。」
道主貴とは三女神の事です。ここで祭られていて、ほっとしました。
(八女津媛を祀る八女津媛神社は矢部(やべ)に現存していています。)
なお、前回は書きませんでしたが、縁起では三女神が降臨したのは、
宗像、道中(筑中)、宇佐の三所だと伝えています。
ここに降臨したのは田心(たごり)姫だそうです。
田心姫と八女津媛は同じ神だという事になります。
水の神と言ってもいろんな側面があるので、女神たちの祭祀場所や名前を尋ねてみると
水沼の君の祭祀の全体が見えてくるかもしれません。
筑後川は「一夜川」(ひとよがわ)と言って、一晩で流れを変えるような暴れ川です。
恵みをもたらしながらも、畏るべき水。
それを司る女神たちを各地に祀ったようすが見えて来ました。
水の女神たちが水沼の君の祭祀の中心を成すのも納得できる地形です。
(つづく)
追記
景行天皇が筑紫を巡狩する時、当社の祭神田心姫命の荒魂が八女津媛となって現れ、
水沼県主猿大海に神告があったので、
天皇は当社に行幸して田心姫命を道主貴として崇められた。 (大城村誌)
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