人気ブログランキング | 話題のタグを見る
ブログトップ

ひもろぎ逍遥

赤司八幡神社(5)神功皇后と蚊田宮と豊姫


赤司八幡神社(5)
神功皇后と蚊田宮と豊姫

赤司八幡神社(5)神功皇后と蚊田宮と豊姫_c0222861_21261962.jpg

次に伝承が出てくるのは神功皇后です。
気長足姫(おきながたらしひめ)尊(神功皇后)は豊姫を神形代(みかたしろ)に立てられた。このために後の人は止誉比咩神社と呼んだ。神名帳に官社として載っている。
醍醐天皇の御代に誉田の神霊武内の神霊住吉の神霊を相殿に遷座して御井郡の惣廟となって初めて放生会を執り行った。  (後略)
三女神を祀る筑紫中津宮に神功皇后が訪れて、豊姫を天皇の代行者として残しました。
これは景行天皇に倣ったのでしょうが、
これがキッカケで止誉比咩神社という新たな社号となりました。

神功皇后はどの段階でこの宮にやって来たのでしょうか。
それはネットに出された「大城(おおき)村誌」で分かりました。
神功皇后が西征の途に於いて中つ海(有明海~当時の筑紫平野)を渡られるに際しては、水沼君は軍船をととのえて有明海を渡し、蚊田行宮(かだのあんぐう)(稲数村)を建ててこれに迎えました。

皇后三韓退治後、ふたたび蚊田行宮に入らるるや水沼君はこれを迎え、軍船の名残をとどめてその記念とした。遺卯の御船といって後世長くのこされたのはこれなのです。

皇后は蚊田宮に応神天皇を分娩されるに際しては、水沼君は高天原よりうつしたという潟の渟名井の霊水を産湯として奉った。潟の渟名井は道中の神井として神聖を保った霊泉でした。

皇后は縁故ふかい道中の当社に妹の豊姫命道主貴としてとどめられ、長く西海の鎮護として重要視されました。
そのために当社を豊姫之宮と称するようになったが、神名帳には止誉比咩神社とあります。
旧大城村(おおき)は南へ約一キロ。益影の井がある所です。
伝承をまとめると、中つ海の中央に位置するこの地は船が付けやすい地形で、
江戸時代には米、その後は砂利を積んだ船が出る良港だったそうです。
今は護岸工事のために川の流れがすっかり変わっています。

古代には水沼の君の船が停泊して、有明海まで自由に往来していました。
神功皇后の時には蚊田に行宮(あんぐう)を建てて歓待しています。
軍船は小郡市の津古(つこ)まで迎えに行ったのでしょう。

この時代には国乳別(くにちわけ)皇子が統治していました。
仲哀天皇に熊襲が朝貢しないという情報をもたらしたのは
この国乳別皇子ではないかという考えを持つようになったのですが、
それに応じて仲哀天皇は小郡市までやって来たのに、急逝。

この先を案じていた時に、その皇后が戦いを続行するというのですから、
国乳別皇子も水沼族も諸手を挙げての大歓迎だった事と思います。

天皇と皇后を迎えるために造った蚊田の行宮跡は、
日比生(ひるお)という所にあるもう一つの豊比咩神社の近くにあったそうです。
かつてはそこに石碑が立っていましたが今は無いという事です。

田油津姫攻撃の途中なので、滞在は一晩だった事でしょう。
軍船は高三潴の弓頭神社を経由して、一気に田油津姫の根拠地の前を過ぎて下流に下り、
柳川市の鷹尾神社に大本営を敷きました。
この時、地元の人たちはごちそうと舞で皇后軍を迎えたという伝承は既に書きました。

神功皇后の足跡は新羅攻撃の後にもここに出て来ます。
安曇磯良(あずみいそら)が船長となった御座船は
大川市の風浪宮から久留米市の大善寺玉垂宮へ。
そこから再びこの筑紫中津宮へと戻ってきます。

この時、神功皇后は蚊田の行宮で出産したと縁起は伝えています。
その時に使った産湯(うぶゆ)はあの渟名井(ぬない)の井戸の水でした。

なるほどね~。
これなら行きと帰りと両方に神功皇后の名前が出て来ても矛盾がない。
と一人で納得するのでありました。

それから神功皇后は妹の豊姫を三女神の祭祀のために道主貴として残しました。
その豊姫の名から「筑紫中津宮」は「止誉比咩神社」と呼ばれるようになりました。
豊姫の墓所は近くの塚島遺跡にあると言われています。

「止誉比咩神社」は後にキリシタン大名の大友宗麟の害を避けるために
「八幡神社」と名を変え、水沼姓を藤原にしました。
さらに「屋わた八幡宮」と変わりました。
現在「赤司(あかじ)八幡神社」の正式名称は「八幡神社」です。

祭神
道主貴 三女神なり (みちぬしのむち)
止與姫命 與止姫命 息長足姫尊 (とよひめ よどひめ おきながたらしひめ)
相殿 八幡大神 高良大神 住吉大神


ブログ内の伝承散歩コース 
田油津姫攻撃の順路
老松神社(小郡市) ⇒ 赤司八幡神社(久留米市) ⇒ 弓頭神社 烏帽子塚古墳(久留米市) ⇒ 鷹尾神社(柳川市) ⇒ 車塚古墳(みやま市) ⇒ 老松神社と蜘蛛塚古墳(みやま市)⇒ 権現塚(みやま市) この先は佐賀県へ

新羅から帰国後の順路
風浪宮(大川市) ⇒ 大善寺玉垂宮(久留米市) ⇒ 赤司八幡神社(久留米市)


赤司八幡神社(5)神功皇后と蚊田宮と豊姫_c0222861_21323930.jpg


さて、赤司八幡神社について五回ほど書きましたが、いつくか疑問が出て来ました。
解けません!二つの謎。いや三つの謎。みなさんのお知恵を借りたい!

一つ目の謎 豊姫は誰?
豊姫は神功皇后の妹だというのですが、まだ腑に落ちていないのです。
神功皇后の妹って誰だろう、実家を調べれば分かるかなと、
仲哀天皇と神功皇后が最初に一緒に暮らした気比の気比宮をネットで調べると、
妹の名前が出て来ました。虚空津姫(そらつひめ)でした。

虚空津姫を調べて行くと、神功皇后は虚空津姫を
広島県の福山市の沼名前神社(ぬなくま)に祭主として残していました。
現地では別名は淀姫だと伝えています。

二つの伝承を比較すると、神功皇后は妹の豊姫を赤司八幡神社に、
あるいは妹の虚空津姫を沼名前神社に置いてきた事になります。
妹が二人にもなってしまった…。

福岡県の八幡古表神社では虚空津姫の別名は玉妃命・豊比売命となっています。

そこで、視点を変えて、「豊姫は竹内宿禰の妻だ」という話を調べて見ました。

ネットを調べると、壱岐真根子に豊子という娘が出て来ました。
壱岐真根子は竹内宿禰と姿がそっくりで、宿禰の代わりに自害した人です。
両者の深い関わりから、豊子は竹内宿禰の妻ではないかという
気持ちがしてならないのです。豊子を豊姫と呼んだのではないか。
彼には子供が9人という事なので、妻は沢山いたことでしょう。

竹内宿禰は虚空津姫を妻にしたのでしょうか。
壱岐真根子の娘の豊子を妻にしたのが、豊姫と伝わっているのではないでしょうか…。

皆さんはどう解きますか?

二つ目の謎 出産地の蚊田は宇美八幡宮か?赤司八幡神社か?王子宮か?
八幡信仰の始まりである応神天皇の出生地なので、
何カ所かあるのは仕方ないなと思うのですが、何とかなりません?

三つ目の疑問 誉田天皇と応神天皇。
この二人は同じ人と言う事になっていますが、
天皇の諡号(しごうー死んだ後に付けられる名前)って、一人に二つも付けるんだろうか。
変だ~。怪しい~。
と思うのであります。

以上、皆さんのアイデアを教えてください、ませませ。

赤司八幡神社(5)神功皇后と蚊田宮と豊姫_c0222861_2132745.jpg


当社に伝わる「竿例し」という特殊祭事については、下記に書いています。
http://lunabura.exblog.jp/18322463/

ときどき、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
赤司八幡神社(5)神功皇后と蚊田宮と豊姫_c0222861_15184581.gif


Commented by こけこま☆ at 2015-10-11 07:41 x
親類一同宇美八幡宮で子安石を収めてますから宇美八幡宮でお願いします!!(自己都合w)
Commented by lunabura at 2015-10-12 17:48
素敵ですね!

「よしなに」とのことです。
誰が???
by lunabura | 2012-01-10 21:38 | 赤司八幡宮・あかじ・久留米 | Comments(2)

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25

by luna