2012年 01月 24日
大元稲荷神社と造化宮・物部胆咋と皇后の木材調達
大元稲荷神社と造化宮
北九州市小倉南区徳力
徳力の語源は「採り木」から
物部胆咋たちは木を伐採した
今回はタイトルに困りました。
探しているのは「西伏見稲荷神社」だったのですが、
そこにあったのは「大元稲荷と造化宮」だったからです。
小倉の「徳力(とくりき)」という地名は「採り木」から派生したそうです。
誰が木を採ったのかというと、神功皇后と物部胆咋です。
物部胆咋(もののべのいくひ=膽咋)が護衛の阿部高麿と助麿兄弟を
連れて皇后と共にやって来たといいます。
阿部の高麿と助麿は、その後、下関市の忌宮で戦死した人です。
何のために木を採りに来たのかと言うと、造船のためです。
木を伐採した話は北九州市から山口県まで各地に残っていました。
徳力はその中の一つです。
神功皇后と物部胆咋と阿倍高麿と助麿。
この顔ぶれがそのまま祭神として「宮司武神社」に祀られていると知って、
取材に行く事にしました。
しかし「宮司武神社」は貴布禰神社(水の神系)の中に祀られていたのが、
秋葉神社(火の神系)に合祀され、
その秋葉神社も西伏見稲荷神社と改称したということで、社号は消滅していました。
地図を見比べて、秋葉神社の名を小倉南区徳力5丁目に見つけたので、
出掛けて行って現地の地形を確認する事にしました。
行ってみると、いつのまにか神理教の境内に紛れ込んでしまいました。
ですから、今回は行った通りに順を追ってそのまま紹介する事にします。
もう日が暮れかかっていました。
現場に近づくと、すぐそばに高架道路が出来ていて、
ぐるぐると同じ所を廻ってしまって辿りつけません。
道の反対から目的地を見ると墓場があって、その中に鳥居が見えました。
探してもそれ以外に見当たらないので廻り込んで近づくと、
車道は狭く、途中からは人道になってしまい、車も止められませんでした。
稲荷なら小高い所にあるはずだからと考えて、山の反対側からアプローチすることにしました。
すると、とても大きな神社の敷地内に出てしまいました。
神理教と書いてあります。
そして目的の山を見ると稲荷の赤い鳥居がずらりと並んでいました。
あった。あった。
喜んで車を降りて扁額を見ると「大元稲荷神社」となっています。
名前は違うけどこの山に違いない。

上り始めると、分かれ道がいくつも出て来てます。
どこかで合流するんだろうと適当に登って行くと、あれ?稲荷ではない。

小峯のピークにあるのは「造化宮」という神社でした。
神紋は16弁の菊花?(正しくは日月五星紋)
由緒書きがあったので、読んで驚きました。(一部変更)
造化宮ここは物部氏の神社でした。ニギハヤヒから12代と具体的に書かれています。
造化宮は饒速日(にぎはやひ)命の12代物部伊美岐が履中天皇の詔をうけて全国の疫病を平癒し、九州に下りこの地に神籬を建て、天在諸神を祀り、万民安全を祈念され信仰の大元を定められたと伝えられる。
雄略天皇の病を平癒した16代物部足奇はその功により天皇より巫部(かんなぎ)の姓と日月五星の御紋章を賜り、この地に居をおく。これが豊国巫部の始めであり、本教の発祥である。
以来、幾多の変遷があったが77代教祖経彦命本教を興すに際し、新たに社殿を設け本教の奥の宮として奉斎する。
祭神は造化三神を中心に天在諸神18柱を祀る。神理教本院
履中天皇はwikiでは336年~405年。仁徳天皇の御子です。
この時代に物部の伊美岐がここに神籬を建てて祭祀したのが始まりでした。
物部氏が祭祀した場所だ。ここはもしかして企救(菊)物部の地?
ここは昔は企救郡(きくのこおり)のようなのです。
この縁起では物部伊美岐が初めて下って来たように受け取れますが、
そうではなく、ここはもともと企救物部氏の拠点であって、
伊美岐が先祖の地に戻ってきて、改めて造化の神々を祭祀したのではないかと思いました。
というのは、最初に書いたように、
神功皇后が徳力に来た時、物部胆咋が一緒に行動しているからです。
目的は先ほど書いたように造船のための木材伐採でした。
胆咋が自分の所領地を案内した可能性があるのではないかと思いました。
「木を伐採する」という事で思い出した事があります。
話はそれますが、久留米市の高良大社の「高良の神は
年に一度山の木を数える」という不思議な伝承の事です。
物部胆咋は高良下宮社の祭神になっています。
これまでの私の推論をまとめると、
謎の「高良玉垂神」とは「安曇の磯良と、その祖たる豊玉彦」であり、
「高良の神」とは「竹内宿禰」だと考えるようになりました。
(高良玉垂神と高良の神は別の神)
それから安曇の磯良が去り、竹内宿禰が去ったあと、
「物部胆咋」が高良山一帯を治めるようになったのではないかと推論しています。
胆咋と木材調達の伝承は他にもありました。
だから胆咋(いくひ)と高良山の「木を数える神」と繋がるかもしれない。
と思ったのです。
(ローカルでマニアックな話で済みません。これについては別項で改めて書きたいと思います。)
話を戻しましょう。
とにかく物部氏の名がここに出て来て、仰天しました。
赤い鳥居の上にある造化宮に面食らって、さらに他の道を辿ってみると、
ついに稲荷社に出ました。

見回すと視界は利かないけれど、もう一つの小ピークの上のようです。
最初に探していた西伏見稲荷神社へと下る道がないかと探しましたが、見つかりませんでした。
しかし、位置関係からすると、ここが元宮に違いないと思いました。
「稲荷=鉄器そして小峯のピーク」という「武器製作と保管庫のセオリー」
通りの社でした。(るなの勝手なセオリーですが)
ここは物部氏の武器庫だったのだろうと思いました。
そして、胆咋は神功皇后に武器の準備のようすを示すためにここに案内した。
これが本筋だと考えました。
由緒書きがありました。
大元稲荷神社由来書きを読むと、江戸時代ごろには忘れ去られた聖地になっていたようです。
当社は古来豊国巫部家の邸内に鎮祭されたものでその勧請年代は定かでない。
文化年間(1804~1815年)教祖の父右七経勝翁が巫部の守護神として祭祀するべく御神託をうけ伊勢外宮より御分霊を奉載した。これを社の中興とする。
教祖幼少のころ小倉藩国学者西田直養翁のもとへ通学の毎夜、絶えず前後を守護するように随行する白狐あり。その後、神理を究めんと行する教え子に数々の神助霊応が絶えず、昭和6年秋境内よりこの地に遷座する。
本教に奉仕する人々の守護神であり、かつ農工商の広きにわたって霊験著しい。昭和47年春改築する。 神理教本院
神理教の教祖によって新たな形で再び稲荷社が出来たのも神縁でしょうか。
写真を撮り終えた頃は暗くなってしまいましたが、
山を降りて来るとまだ明るいので、神理教の方にも廻ってみました。

これが本院です。
ここにも由緒書きが。
神理教のあらましここは物部氏の古神道が再び世に出てきた教会のようです。
神理教は我が国の古代神道を復活された教派であり、高祖饒速日命が天照大神より番民救済のため天璽十種(とくさ)の神宝を授かった時にはじまり、その子孫が代々神示、神術を伝えて、77代教祖巫部佐野経彦命によって祖逑大成されたものであります。
(後略)
こうして、目的の西伏見稲荷神社が大元稲荷神社に変わったのかどうか
分からないまま、日が暮れて帰途に着きました。
神功皇后の伝承のガイドブックに取り上げるには曖昧だったので、掲載をあきらめたのですが、
造船した場所や材木を調達した場所などが明らかになるにつれて、
新羅攻撃の計画がすでにあった事を確信するようになりました。
日本書紀とは様相が違っています。
蛇足ですが
帆柱山で神功皇后の船の帆柱を伐採したというのは地元で有名な話でした。
地図 大元稲荷神社と造化宮と神理教
う~む。この地図を見ると、やはりすぐ南に徳力秋葉神社がありますね~。
ここまで記事を書いたから、書き直しはやめにしようっと。
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