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ひもろぎ逍遥

貴船神社・神功皇后の船留めの松・熊一族の聖地か?


貴船神社きふね
北九州市若松区乙丸
神功皇后の船留めの松
ここは熊鰐一族の聖地だろうか

魚鳥池から向かった貴船神社への道は本流から外れて北へ向かいました。
この11号線が海だとしたら両脇の丘は岬です。

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次々に岬が現れて来ます。

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左手にこの丘が見えたら、ガードレールの切れ目に注意します。

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何も書いていない(!)ガードレールの切れ目から橋を渡るとこんな景色です。

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最初の森の切れ目にこんな空地が出て来ます。
説明板が目印で車が一台だけ止められるスペースがあります。
そして正面の道を歩いて行くと100mほどで鳥居が見えます。

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この先は行き止まりです。桜の木がいっぱい!

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石段の脇に石碑がありました!
「史跡 神功皇后船留之松跡」と書いてあります。
う~む。こんな所に船を入れた?ここは海だった?
石碑が無かったら全く想像出来ない。

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石段を上ると狭い斜面に本殿が祀られていました。
ご祭神は闇淤加美(くらおかみ) 高淤加美(たかおかみ)です。

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上から見下ろした光景です。
砂地が見えますが、そこに船をつないだというのです。
山の中に入って来た印象だったので信じ難かったのですが、
小さな入り江のように侵食した地形から、古代はここは波の打ち寄せる入り江だったのだと思いました。

小さな船が数隻しか入れないような小さな入り江。
しかし、どれほど美しい所だったのか、心の目に浮かびます。
ここは普通の人は立ち入れない聖地だったに違いないと思いました。

そこに、水の神が祀られていました。
「闇淤加美」(くらおかみ)の「闇」はこの入江のような形をした峡谷の地形をさします。
「淤加美(おかみ)」とは龍神の事でもあり、水の神です。
かつてはこの奥まった場所に清らかな水が湧いていたのかも知れません。
海の民にとっては水は命の糧です。

ここを領地としていたのは熊鰐です。
だから、ここは熊の一族の聖地に間違いないだろうと思いました。
神功皇后はここにわざわざ立ち寄ったに違いない。
何故なら本来の航路からずっと逸(そ)れているからです。

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赤い線が通常の推定航路です。
貴船神社へ行くにはピンクの航路を取らないと行けません。かなりの遠回りです。

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しかも、360度も廻り込まないとここに着けません。
日本書紀には省略されていた、この貴船神社参拝こそ、
神功皇后が仲哀天皇と分かれて単独で洞の海に向かった真の理由だと思うようになりました。

熊鰐はこの洞の海の左端から右端までを領有していたと思われ、
左端の山鹿には屋敷跡が史跡として残っています。
熊鰐はこの洞の海で船団を整えた一番の功労者です。
しかも神武天皇由来の聖地も守り続けた一族。
神功皇后はこの男の恩に報いる為にわざわざ立ち寄って祭祀した。
いかにも彼女らしい行為だと思いました。

さて、この貴船神社にはそれから数百年たって、不思議な事が起こります。
それが説明板にある「ほら貝祭」の由来です。

毎年4月15日、若松区乙丸の貴船神社で、ご神体のほら貝からお神酒(みき)をいただき、不老長寿を祈願する「ほら貝祭」が行われます。

この地区には「筑前国庄の浦寿命界由来記」が伝えられており、それには天明2年(1782)5月、筑前芦屋の商人が奥州津軽で600余年も生き続けた女性に会った話が記されています。

一人の商人が津軽の山路で道に迷い、女に一夜の宿を頼みました。女は筑前の生まれというその男を懐かしんで家に案内し、語り始めました。

「私は筑前山鹿の近くの庄の浦に住んでいた海女(あま)の子です。ある時、私は病いに倒れ、明日をも知れぬ命となっていましたが、孝行な子供達がほら貝を採って帰り、料理をして食べさせてくれました。

おかげで元気を取り戻し、それからは病気一つしなくなりました。そして、いくら歳月が流れても老いの兆しもなく、あれが不老不死の薬だったのではと思っているうちに、早や600年余りが過ぎてしまいました。

夫も子も孫も皆死んでいくのに、自分一人歳をとることなく、生きるつらさに何度死のうとしたかわかりません。住みなれた村もだんだん住みにくくなったので、諸国の神社や寺院にお参りすることを思い立ち、一人で各地を渡り歩きました。

ある所では夫婦になって暮らしたこともありますが、私が歳をとらないので化生(けしょう)の者と怪しまれ、こっそりと抜け出したことがあります。諸国を転々つとするうちに津軽に来て、断りきれずに、この家の主人に嫁ぎました。

私が故郷を出る時、ほら貝を形見として小さな祠(ほこら)に納めて参りましたが、今はどうなっていることでしょう。祠のそばに船留めの松というのがありましたが、松は千年といいますから、今でもあるかもしれません。

あなたがそこに行くことがあったら、私の子孫でもいればこの話をしてやって下さい。」
商人はこの年の10月、庄の浦を訪れ、子孫の伝次郎という人に会い、この話を伝えました。  北九州市教育委員会
どこかしら切ない話ですね。不老長寿になるのも大変だ。

内容は別として、ここが山鹿であり「船留めの松」があり、「庄の浦」と言い、
海女が住んでいたという点で、やはりここには波が打ち寄せていたのが分かりました。
ここの地名は乙丸ですが、すぐ近くには蜑住(あまずみ)という所があります。
まさにアマたちが根拠地としていた所です。

現在は入江には畑が出来ていますが、古代の地形がそのまま残っている点で、
とても印象深い神社でした。

さて、神功皇后の伝承はこのあと、岡の湊に出て来ます。
その右岸には熊鰐の屋敷跡があり、左岸には岡湊神社があります。
そこでは仲哀天皇の船が進まなくなるという問題が起こりました。

その件についてはすでに記事にしています。
崗湊神社 http://lunabura.exblog.jp/15828366/
⇒ 高倉神社 http://lunabura.exblog.jp/i58
⇒ 神武天皇社 http://lunabura.exblog.jp/i72/
⇒ 埴生神社 http://lunabura.exblog.jp/i101/
が順路です。
時間がある方は、そちらにブログ内散歩してくださいませ。

また、この近くで出土した縄文の哀しい母子と女性の謎の埋葬は
「芦屋歴史の里」(歴史民俗資料館)にて。
山鹿貝塚/縄文の若き母と子ほか計18体が発掘されていた
http://lunabura.exblog.jp/15862673/







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by lunabura | 2012-02-02 19:54 | (カ行)神社 | Comments(0)

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25

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