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ひもろぎ逍遥

剣神社・ヤマトタケルの滞在地跡で神功皇后は祈った


剣神社
つるぎ
福岡県鞍手郡鞍手町木月
ヤマトタケルの滞在地跡で神功皇后は祈った 


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西川という遠賀川の支流の対岸から剣神社の杜を写しました。
かつてはこの川もまだ海で、剣神社の辺りは島だったそうです。

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剣神社の一の鳥居は西川を向いていました。
天気のいい日に行ったところ、緑陰が深くて木漏れ日の中の写真しか撮れず、
ちょっと見づらいですが、それほど植物相が豊かな証しです。

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剣神社という事なので、高倉神社で作った草薙の剣の8本のコピーの剣が
配られた所かもしれません。
ご祭神は須佐之男命、日本武尊、宮須姫の命です。

由緒書きから
祭神 
須佐之男命 出雲大社(祭神大国主天神)の父神で国土開拓・農業・幸福・厄除の神として広く信仰あり。また出雲の神と共に日本一の霊神として尊崇あり。又この神は大国主神と共に全国至るところに祀られる。

日本武尊 第12代景行天皇の皇子として全国のまつろわぬ賊を平定し大和朝廷の基礎を築かれる。また武勇の神として広く信仰あり。

宮須姫の命
 日本武尊の御后にして三種の神器の一つである草薙剣を日本武尊亡きあと、御神体として熱田の宮に鎮め給ふ現在の熱田神宮なり。また姫は尾張国造の祖となられる。


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この三柱の祭神の組み合わせはこの町の神社によく見られます。
この三柱の祭神は「草薙の剣」の歴代の所有者です。(詳しくは古物神社・八剣神社にて)

かつてスサノオ命がこの町を通って(古物神社伝承)、
それからヤマトタケルがやって来ました。
この剣神社では滞在した伝承が残っていました。

この鞍手町は物部氏の本貫地として重要な町ですが、
ヤマトタケルが来た時に八剣(やつるぎ)神社では仮宮まで建てて歓待しています。
(八剣神社伝承)http://lunabura.exblog.jp/i28
この町はそのような歴史の古い層が残っている点で、とても興味深い所です。

そして数十年経つと、ヤマトタケルの子の仲哀天皇がやって来ました。
この時、神功皇后は杉の枝を折って大麻(おおぬさ)として祈った後、
その枝を地に挿したと伝わっています。
その枝が根付いて大樹となった事から「木付き」「木月」という地名になったとか。
皇后はあちこちで枝を逆さにして地に挿してるんですね。

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ネットで調べると、
拝殿を修理した時、石棺が出土して鉄剣と銅鏡が出てきたそうです。
本殿の左の方には十分な広さの敷地が残されていたので、
ここには首長が住んでいて、その内の一人の墓ではないかと想像しました。

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境内を歩いて見るとはこのように崩れかけた祠、小さな拝殿などが沢山あって、
祭祀の形の変遷が見られます。
ボロブドールみたいに、大木が祠に喰い込んでいます。
長い年月を経た美があふれる境内です。

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この図はこのブログで紹介した付近の神社を記したものです。(2012年2月現在)
こうして見ると、仲哀天皇の一行は
埴生神社から剣神社を経て虫生津で上陸して古物神社へと移動したと思われますが、
遠賀川の上流の方にも伝承がいくつかあります。

そこで皆さんのお知恵を拝借。
上流にある次の二つの神社の伝承をどう組み合わせますか?
鏡山大神社 神功皇后は御霊を鏡に鎮めた
http://lunabura.exblog.jp/16767388/


撃鼓神社(1)下宮 太鼓と笛の神さまと乳の池と神功皇后
http://lunabura.exblog.jp/i135/


撃鼓神社(2)上宮 白旗山の中腹にある上宮へ

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私は埴生神社に行宮(あんぐう)があったという伝承から、そこを根拠地として、上流へ行って、
香春岳銅山のある鏡山大神社を押さえるために夏羽に会い、
撃鼓(げっこ)神社の「王谷郷」で支援者と会って、神楽の指導を受け、
それからこの剣神社で父の御魂に挨拶をしてから虫生津に上陸したと推定しました。
最上流にある正八幡神社は田原麿の伝承地です。
この人は仲哀天皇が来ると聞いて勇んで参軍した武将です。

さて、剣神社の次に伝承が出て来るのは古物神社です。
ここもすでに記事にしています。とても重要な神社として注目しています。
古物神社 http://lunabura.exblog.jp/i29/
古物神社(1)宗像三女神が生れた十握剣と父のスサノオが始まりだった
古物神社(2)草薙の剣が降って来た・筑紫の天智天皇
古物神社(3)「ふる」は「隕石」の古語。石上神宮の元宮か?
古物神社(4)物部氏は中東から来た星見の氏族


地図 剣神社(木月)






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Commented by furutsuki at 2014-09-26 23:12 x
私が幼少の頃、鞍手の木月宮の町道沿いの鳥居から参道をぬけた二つめの鳥居脇には「主計(かずえ)」さんというご名字のお家がありました(今調べても福岡県に偏在する希少名ですね)。その家のおばぁ様がおっしゃるには、家伝で「主計は、おかみの大蔵に仕えた家である」ということでした。なにかのお役に立ちますか? 
あと、木月宮は、貴船神社でもあったかと思います。とても重要な気がします。
Commented by lunabura at 2014-09-27 00:17
鞍手はどれも重要ですよね。
もっと、見直しがあっても良いと思っています。
昔の話、どんどん聞かせてください。
Commented by furutsuki at 2014-09-27 10:10 x
幼少の頃、古月保育所にお世話になりました。当時は、木月宮の道路に面した石鳥居をくぐって桜並木のトンネルを抜けた先に保育所の建物がありました。 保母の先生方の中に とある郷土史家 の奥様がいらして、ポカポカと晴れた日には、保育所周辺のお散歩に出て色々なお話をしてくださいました。
木月宮の道路に面した鳥居の先(道路の反対側)は、水路になっています。今は短いですが、当時はもうすこし長かったです。蒲(がま)の穂が揺れていました。蒲というものを初めて教わりました。この水路は昔は更に長くて、荒五郎山・神崎方面へ延びていたそうです。桜並木の参道もその昔は水路だったそうです。貴船様は水神でもあると教わりました。
Commented by furutsuki at 2014-09-28 00:53 x
荒五郎山の山頂には、保食神の小さな祠があって、一段低いところに建っている真言宗のお寺が守護しています。 荒五郎は、荒御霊の転化でしょうか?  もしかして、鞍手に流されたという "守屋次男片野目連四男辰狐連" となにか関係があるのでしょうか? 気になります。
Commented by furutsuki at 2014-10-04 10:31 x
木月宮の南に、木月池があります。そのすぐ南の丘が猪倉という地名で、外からは解り難いですが、猪倉にも貴船神社があります。

今から何十年も前の話ですが、初めて「木月池」の案内板が池のほとりに立てられたとき、猪倉の古い家の友人とこんな話をしたのを思い出しました。

 「木月池ち看板が立ったけど、聞いてた名前と違う。こんな名前やったっけ?」
 「うーん、白鳥池(しらとりいけ)。少なくとも東半分はそう呼んでた。」
 「うんうん、そんなんやった。陥落(かんらく)ち言うてる人もいるけど?」
 「それは、上木月寄りの一部。もうだいたい埋められたろ」
 「でも大きいよね」
 「ここは、川やったち。流れを変えたとよ」
 「変えたち、あっちは遠賀川やろ」
 「そう」
 「どこで繋がってたん?」
 「よう知らんけど、小牧と植木の間!?」
 「それは洪水かなんか?」
 「いや、木月のおかみが工事したち聞いた」
 「秀吉さん来た頃?」
 「いやもっと前」
 「ふーん」
Commented by furutsuki at 2014-10-04 10:40 x
(続きです)
京都に住むようになって、5世紀~8世紀の山背開拓時に河川を直線化する工事を 秦氏がガシガシやっていたのを知りました。 大国社を呼んでやってもらったという伝承もいくつかの神社に残っています。

後で知ったのですが、蛇行する自然河川を真っ直ぐにすると、川底が下がって地下水位も下がり、泥炭湿地から水が抜けて圃場化できるようになるんですね。すごい水利土木技術です。

この鞍手町木月の川の付け替えの話もその頃のことだったのかなぁと改めて思い返しました。 そういえば、西川も遠賀川中流下流も、高低差が殆ど無い筑豊平野を流れているのに、とても真っ直ぐ流れているなぁと感心しました。
Commented by lunabura at 2014-10-04 23:23
秦氏は河川工事にすぐれていたのですね。
いろいろ、知らないことばかり、コメント楽しみにしています。
Commented by furutsuki at 2014-10-05 00:58 x
こんな話でよければ、たくさんあります。

それから、筑豊に 貴船神社 がたくさんありますが、
少なくとも3種類ある気がします。
・古く(古代)からの 貴船神社
・平家滅亡後に 麻生氏が京都鞍馬から勧進した 貴船神社
・戦国時代に、岩石城が落ちて鞍手等に帰農した一族が持ち帰った貴船様
ややこしいですね。
Commented by lunabura at 2014-10-05 23:18
貴船神社が時代で分類できるとは、面白いですね。
いつもありがとうございます^^
Commented by furutsuki at 2014-10-12 01:48 x
『遠賀郡誌』の嶋門村のところに、気になる記載がありました。 抜粋します。

| 嶋津は、古へ嶋門の駅趾にて、延喜式にも載せられたる著名の地
| 鬼津も古へ太宰府より京に上る官道にて、官津(オンヅ)の由なるを後に転訛せしもの也。
| (中略)
| 別府昔は太宰府の官人出張して成務を執り行ひしより別府の名ありし。
| (中略)
| 昔は西川が遠賀川の本流だったという。
|
| 村社 貴船神社 鬼津区字矢倉
| 境内無格社 厳島神社 二村氏の社と称す。
| 同上同神社 秦氏の社と称す、秦氏は秦河勝より出づと云ふ、
| 河勝数代の孫勝野太郎左近将監河内守勝茂、鞍手郡勝野村に
| 居住せしが、其子孫此地に転任せし由 云々 
| (中略)
| 鬼津は官津(オンツ)の由なる
| 官津を大津、御津など云事古書に数多あり。

秦河勝といえば、京都の太秦に広隆寺を建立した人であり、
物部守屋を切った人ですよね。どうなっているのでしょうか。
Commented by lunabura at 2014-10-12 22:47
hurutsukiさん、こんばんは。
郡誌、面白いですね。
話題が少しずれますが、秦姓は福岡と大分、山口に集中しているんですね。
秦氏が最初に根拠地を作ったのが、そのまま残っていると考えています。
Commented by furutsuki at 2014-10-13 11:41 x
そうですね。京都には 川勝さんや大秦さんとして子孫が残っています。
ただ秦姓は渡来多部族ひっくるめての総称のようなので、遠賀に河勝の
子孫がいたと明記されていることが重要な気がします。
河勝の子孫で繁栄したのは大和の長谷川党が有名です。薩摩の島津氏も
その系譜だそうです。(そういえば、島津の地名が遠賀にありますね)
Commented by furutsuki at 2014-10-13 11:46 x
「遠賀のむかしばなし」に、
|木守の大曲から西の方を巡って、別府(べふ)の外側を通り、白賀宮前、
|木垂(こだれ)と流れて、鬼津の井手を通り 云々
と記述あり、遠賀川は むちゃくちゃ蛇行していたようです。
秦氏が遠賀川と西川に分けて真っ直ぐにする河川工事をして、その実績を
買われて 山背の開拓も請け負うことになったのだと私は理解していたので、
秦河勝のすぐあとの子孫が小竹や遠賀に居たのがちょっと意外でした。

それで、鬼津の貴船神社の縁起はどういうことなのかなぁと思ったのでした。
1) 河勝がまさに秦氏が山背に出た時代の人で、子の一部を鞍手郡に残した。
2) 河勝が蘇我入鹿の圧迫を受け近畿から逃げた際、子を先代の地に返した。
3) 卜部壱岐守板氏安麻呂が大宰師になったときに山背から秦氏を連れ帰ってきた。
4) 河勝のときからずっと2拠点で頻繁な往来をしていた。
どう思われます?
Commented by lunabura at 2014-10-13 23:55
furutsukiさん、詳しいですね!
私は何も知らなくて、お話を聞いて驚いてばかりです。
四択ですね…。
当てずっぽうで、「4」でお願いします (^_^;)
Commented by furutsuki at 2014-10-18 23:56 x
私も4かなと思います。

ところで、地図に海抜50センチ以下で色を付けると、直線化工事前の曲がりくねった古遠賀川が浮かび上がってきますね。 また、神功皇后の虫生津上陸の頃の海水準は、古門の言い伝えルートから推測すると4~5mくらいかと思われます。
Commented by lunabura at 2014-10-19 22:12
へえ、古遠賀川ですか?
興味深いですね。
神功皇后の時代は5m前後かと私も思っています。
弥生の小海進期というそうです。
5mの推進があれば舟も通りますね。
by lunabura | 2012-02-06 15:33 | (タ行)神社 | Comments(16)

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